シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

今この瞬間に全速力で逃げるのもヒーローの条件かもしれない


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どうやら、ここら一帯は台風が通りすぎたようだ。

朝からずっと、誰も体験したことの無い規模の台風に備えて、色々準備をしたりしていたが、中でも一番疲れたのは、気を張っておくという事だ。

いつも心がけている事の一つに、「何が起きるかわからないけど、何が起きても大丈夫な状態にしておく」というのがある。何を言ってるかわからねーと思うが、これは、ありのまま話しているのだ。本当に読んで字の如くなのだ。そして、このような、『矛盾を矛盾では無くすこと』に重きを置いているので、並々ならぬパワーが必要になるのだ。多分そうなのだ。だから、こういう有事の際に(とはいっても、今回はレベルMAXに近いような有事だけど)、常時、気を張っている状態になって、それが終わると本当に空気が抜けたかのように一気に萎んで、同時に強い疲労感がやってくる。ここまでがセットだ。

今までの人生で経験した事の無いレベルの危機的状況。しかも一人ではない。状況判断を間違えれば、もしかしたら死ぬかもしれないような、そんな状況。そうならない為に、何をどうすれば良いのか全く分からない中で、何をどうするのか必死で考えた。結果的には、何事もなく無事にやり過ごした事になる。
「俺様の状況判断が良かったからじゃろう!」もちろんそんな風に声高に言ってもよいのかもしれない。でも、これはただ運が良かっただけなのだ。台風の動きと勢いに対して、住んでる場所がたまたま被害を免れるような場所だったというだけ。本当にたまたま。これを、自分の判断の結果だと思った瞬間から、恐らく、「何が起きるか分からないけど~」の最適解に近いところからはかなり遠い場所に行ってしまうのだろう。選択してきた事が、成功だったかどうかは、最期まで生き残って、自分の人生を全うできたという実感を得た状態で最期を迎える事ができたときにはじめてわかるのかもしれない。そんな事を思っている台風一過の午前4時過ぎ。

夜が明けたら、この世界がどうなっているのか、まずは現状把握するところからだ。

さあ、次のサバイバルが始まるぞ。

来るのが分かっていても防ぐ事も避ける事もできないこんな時


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超大型の台風が迫ってきている。

そんな情報を見たら、何だかソワソワしてきた。色んな情報から、この台風のヤバさが伝わってくる。そんな気持ちで仕事に行ったけど、ソワソワは止まらない。会社の窓には幸いにもつい先日、内側から遮光フィルムを貼り付けたばかりだから、万が一の場合でもガラスの飛散は防げるだろう。午後からは、風も出てきたし雨も降ってきた。結構土砂降りだ。

仕事をしていてもソワソワが止まらない。多分、ビビっているのだ。今回の台風の大きさに。そこからイメージされる大きめな被害に。とは言え、それなりの備えはできている。だから、少なくとも自分の家と家族は大丈夫なんだろうなとは思っている。なのに、このソワソワ感。

この感じは、あの時に似ている。震災の後のあの感じに似ている。自分達はとりあえず無事だったけど、これからどうなるのか、この先何があるのか、そんななんとも言えないような、でもずっと消えない不安。あの感じに似ている気がするのだ。

ちなみに、台風が原因で生活に困った記憶は無い。これまでの人生で経験した台風は俺の生活には直接的には、ほとんど何も影響を与えては来なかった。だから、実際には台風を恐がる必要はないはずなのだ。

できれば、このままいつも通りに大したことも無く、「世の中全体で取り越し苦労だったね」なんて言えたらよいんだけどなあ。そんな事を思っている。

今のところワクワクする持ちはゼロだ。明日の暴風雨がどの程度なのか、それが気になって仕方がない。夜中の3時に目が覚めて、こんな事を書いてしまう位には不安を感じているようだ。

こんな時には、どう受けるか。それを考えるしかないんだろうなきっと。受けの美学。それしかない。

夢で会ったあの人は本を片手に闘っていた


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夢を見た。

ある人が、たった一人で悪霊を成仏させている。そんな夢。

その人は、まだ会ったことが無いけど、いつか会いに行きたいと思っている人。でと、その人は、お坊さんでもなければ陰陽師でもない。職業は学者だ。そして、俺は悪霊や幽霊どころか神も仏も信じていない。それなのに、こんな夢を見た。

この夢を俺なりに解釈した結果、人は、その想いや考えを発することなく溜め込んでしまうと悪霊にもなるし、逆に、それらを発することができれば、思い残すことはないのかもしれない。例え、その人が亡くなっていなかったとしても。そんな風に考えたのだ。

想いや考えを、発してはいけないと抑圧する何かによって外に出す機会に恵まれないことって、誰にでもあるんじゃないかと思うのだ。それが無い状態で生きているのは恐らく小さな子どもくらいのものだろう。そういう事をしないからこそ、分別のある大人と呼ばれるのだ。そんな、抑圧的な生き方をするしかない大人は、誰もが生きながらにして、悪霊と化す可能性があるのだ。
だけど、その抑圧を解いてくれるモノがあるとしたら。そして、その可能性は、俺の夢に出てきたまだ会ったことも無い学者さんが、恐らくもたらしてくれるのだ。その奇跡とも言える学問は、哲学。その哲学を使ったとある手法が、大きな可能性を秘めているのだ。

そんな夢を見た。

これは、ただの夢に終わるのか?
それとも、正夢になるのだろうか?

 

求めるものはただ一つ


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新しい仕事が入ってきた。

とある業界の中では大手に位置する企業からの仕事だ。案件自体は大した金額の仕事ではない。ちなみに、これは俺たちの見解でもあるけど、そもそも先方の担当者が俺たちに向けて言っていた言葉だ。

とは言え、大手との直接の契約なので喜ばしい仕事ではあるけど、俺は一つ気に入らないことがある。

それは、『対等じゃない感』が企業の姿勢としてありありと出ている事だ。それはもう、言葉の端々に。契約の内容から。そして、契約書の詳細から。感じるのは、『下請けとして使ってやるからな感』だ。

ここから先は交渉だ。あくまでも、対等としてじゃないと仕事はしない。そらは以前から変わらない。ここだけが俺たちの最終防衛ラインだ。このラインさえ割らなければ、後は大抵の事は気にしない。その事を、直接的にも婉曲的にも伝えていこうと思っている。もちろんその結果どうにかなったとしても、それは、まあ、仕方ないかなと。

そんな感じで、とにかく、これからの展開に自分事ながらワクワクしてるところだ。

さあ、これからどうなる事か。

その眼に映るのはどんなモノ?


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使い古されたと思っていたものも、捉え方次第で、全く新しいツールとして使うことができる。

そんな事に、今日気付いた。

ずいぶん以前に仕入れた知識。ネットで検索すればうんざりするほど出てくる知識。もはや、同業者でもないような人ですらどこかでは聞いたことがあるというほどには誰でも知っているような、とても陳腐化してしまった知識。

今さら新しいモノでも無いんだけれど、その使い方をほんの少しだけ捻れば、これまでに無い全く新しいツールに生まれ変わるのだ。でも、その新しい使い方を思い付いたヤツは今のところ俺たち以外にはいないのだ。なぜなら、ありとあらゆるところで、その新しい使い方をした結果必ず生みだされるであろう効果が、この世の中の至るところでずっと求められ続けているのに、それに対して効果的なモノを提供できているという話は聞いたことがないのだ。

ネットでは、あれだけ陳腐化している知識がベースになっているのに、それの使い方を捻った結果生み出されるその結果は、それこそ陳腐化してしまっているその知識以上のボリュームで至る人たちが求め続けているものなのだ。

これに気付いた瞬間、長年自分が求めていた事の答えが一つ出た気がするのだ。それは、『自分はできるけど、それをうまく他の人に伝えられない』という事だ。長年抱え続けてきたこの想いを、可能にするメソッドが、もしかしたら、これから先で作れるのかもしれない。

そんな希望を持てるくらいに、大きな発見だったんじゃないかなと思っている。

ただ一つ問題があるとすれば、それは、俺のこの話をまともに取り合ってくれる人がもしかしたら誰もいないんじゃないかなあという事だけだ。

ルールがわからないと楽しめないもんね


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試合のルールを思いっきり間違えていた。

そんな事に気づいたのだ。

自分達が参加している試合のルールについてだ。例えて言うなら、サッカーだと思ってやっていたのに、実はバレーボールだったというくらいにはルールを間違えていた事がわかった。手は絶対に使っちゃいけないし、ネットにボールを叩き込めば点が入ると思っていたのに、どれたけやっても点が入らないし、思うように試合が展開していかない。「もしかして?」と思って、これまでに点が入った状況を分析したら、さの共通点はネットにボールを叩き込んだ後にボールがネットを越えて向こう側に落ちていたのだ。どうやら、ネットを越えた場所にボールが落ちたら点が入っていたんじゃないかと仮説を立てて考えてみると、この仮説で全ての整合性が採れそうな感じが濃厚になってきたのだ。

こうなってくると、この仮説を実践して検証することが急務になってくる。

この世界では、自分がやっている試合が、そもそも何の競技なのか?それはどんなルールで行われているのか?どうやったら勝ちになって、どうやったら負けになるのか?勝つとどうなるのか?負けるとどうなるのか?それらについては、誰も教えてはくれないのだ。それらは全て自分でやってみて知るしかないのだ。ただ、世の中の多くの人が既に知っている競技と大まかなルールは流通しているし、プレーヤーの数がとても少ない競技で勝ち続けている人が、さも「真理です」という顔をして自分がやっている競技のルールを声高に喧伝している状況があるので、とても多くの人がそのルールを真理だと捉えてしまっていたりする。

俺たちは、独自の競技で独自のルールのはずだったのに、どうやらいつのまにか、既存の競技のルールを勝手に採用して、それで試合をしてしまっていたらしいのだ。そして、それは当然、自分達のやっている事とは合致していないし、そもそもルールがルールトシテ機能していないので、結果に結び付くはずもないのに、「結果か出ないのはなぜだ?」と苦しんでいたのだ。あまりにも、愚か。あまりにも、滑稽。

そんな自分達の状況に、ようやく気付いたのだ。

やっぱり、どこまでいっても、自分達で体験してみないと実感として分からないし、自分のバイアスに気付いて抜け出すには「何とか現状を変えなければ!」という強烈な欲求が自分の中に無ければ、どうにもならないし、逆にそれが本当にあればいつだって変われるし、現状を打破することは必ずできるんだという事が、あらためてわかった。

やっぱり、俺たちは、伸び代しかないのだ。

怖さの本質


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世の中は広い。

今日参加したとあるイベントで会った人達が、これまでの人生で関わる機会の無かった人達だった。

どんな人達かと言うと、一見すると善良な人間の皮を被ってボジティブな態度をしながらも全力全開で己の中の差別主義的思想を他人にぶちまける人間だ。

とは言え、恐らくその人達も一般市民として普段から生活をしている様子なので、日常的には言いたいことを我慢しながら生きているんじゃないのかなあとは思う。

たまたま昨日のイベントが、自分の意見を自由に発言する機会が多かったからそれが露になったというだけなんだろうけど、人の考え方の根底の部分に触れるというのは結構な怖さがあるんだなあということが、あらためてよくわかった。

とは言え、そんな発言をする人達の心理は一体どんな事になっていたのかというのは非常に興味深いところではある。全ては推測することしかできないけれども、今後も様々な人に会う機会がたくさん出てくると思うので、色んな人の発信を興味深く受信していこうと思う。

それにしても、あんなにあからさまに強烈な差別主義的思想を持ちながら、多くの人に関わる普通の仕事をしている人達が世の中にはたくさんいて、その思想に基づいた言動をしていて、この世界のどこかで誰かになにがしかの影響を与えているのであろう事が、俺にはとても怖く感じられた。

俺にできるのは、なるべく関わることの無いように生きていく事くらいしかないのだけど。