シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

法事とは、古の時代の秀逸な教えを学び取る機会である

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今日は朝から昼頃まで親戚の法事があって出席してきました。

ついさっき帰ってきて、昼寝する前にブログでも書くかなと思い、PCを起ち上げ今に至ります。

 

正直、今朝あらためて言われるまでこの法事の事をすっかり忘れていました。

マジで昨日の仲間との飲みの時に水をたくさん飲んでおいてよかったなと、自分の昨日の行動に感謝しています。何しろ、9時間半の飲みの間で、実に5Lは水を飲みました。おかげさまで二日酔い皆無。我ながら凄い。

何しろ、昨日は13時から飲み始めて家に帰ったのが22時半まで飲んでいたにも関わらず、今この瞬間(午後14時にも関わらず)全く二日酔いが無い。(昨日飲んでる間中頭痛が止まらなかったのは内緒)

 

今朝は、ゆっくりめの7時頃起きて、奥さんが娘に「今日は法事だよ」と言っているのを聞いて「そういえば!」と思い出したのがスタートだったけど、10時の出発には十分すぎるほど時間があり、体調も全く普段通りだったので、まさにMr.パーフェクト(@アーネストホースト)。

お寺での法事が終わり、本家の家でお昼をごちそうになり、おひらきになるという流れを予想していたら、予想外というか実は予想通りというか昼日中からビールを勧められて、しっかり飲ませていただきました。

つまり、

14時の今時点ですっかり酔っぱらっています。

 

それにしても、法事で行ったお寺でお経をあげてもらってる時に思ったのは、お坊さんの読経って、今の時代に耳にするインドのミュージックとすごく近いなという印象。節回しとか鳴り物を叩くリズムとか唸るような歌い方とかその他もろもろがやっぱり、仏教ってインド発祥なんだなと納得できる感じ。

さらに、この儀式がまさに亡くなった人達と今現在生きている我々とを繋ぐ儀礼なんだなということを実感しました。

今は亡きご先祖様や親しかった人達とあらためて対話をするための装置というか。それを担うのが宗教とその中に組み込まれている儀式という仕組みというものなのかもしれない。これが孔子が言っていた六芸。

これの『礼・楽』の部分は間違いなく日本の様々な宗教の中で生きているんんだなと改めて思いました。

 

お寺の中の、一般人が足を踏み入れてはいけない場所の中の装飾や建造物の配置を見ると、我々一般人が生きて見ている世界と全く違うというのはもちろん、こういうものを昔の人が考えて、今の時代まで受け継いで、この現代でも住職という人達が、発祥の地で起きた歌の節回しをその時の現地の言葉に近い音で歌い、死者の魂とそれを受け継いでいく人達の心を繋げる役割をする。

そんな事を考えていると、お寺での法事、親戚が主催する法事の意味が、何やらありがたいというか尊いモノのような気がして、そのあとの食事も、勧められるがままにビールを飲んで、お寿司をいただいて、アルコール摂取は昨日の今日にも関わらず、眠さマックスの状態で帰宅しました。

この記事をアップしたら、昼寝します。

 

昼過ぎだけど、おやすみなさい。