シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

夏を先取り。現代の新・怪談

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ここしばらく、ずっと考えている事。

それは、『同じ言葉を使っているのに全く別の事を話している人達』についてだ。

 

例えば、仕事上ではこのような事について「前提の共有が必要である」という話で全てをまとめようとする向きがある。

もちろん『前提のズレ』が問題になっている事もたくさんあるけど、実は、『前提の共有をするための前提の共有をするための前提を共有するための…』という無限ループが起きているような状態がたくさんある気がしている。

 

例えば、仕事上では、立場(職位含む)や、それまでに携わってきた業務、持っている情報量によって、前提としている事柄が違うケースが多々あるので、関わるスタッフ全員で『前提の共有』をする必要がある。

これは、当たり前の話なのでこれについては、全くその通り。絶対にやる必要がある。

 

でも、これはあくまでも仕事上の話。

 

もっと言うと、その会社・その業務に関わる場合についてだけ必要な話。これも当たり前の話。

だけど、その会社・その業務に関わる事柄ではない事、もう少し言うと、その会社・その業務に関わる前に、むしろ日本という国で20年以上生きてきたら『知っているべき事柄』『知らないといけない事柄』『当然知っている事を前提にしている事柄』『身に付いている事が前提になっている事柄』というのが絶対的に存在するのではないかと思っている。もう少し正確に言うと、絶対的に存在するのではないかと思っていた

 

ここまで読んで、

「40過ぎの中間管理職が若手社員に「ホントに今どきの若いやつら常識がないから」という話か、そんなの聞き飽きたよ」と思った方、全然違います。そういう話じゃありません。

これまでに『常識』の定義とか言葉の意味とかを散々調べて、結果、これは常識の話じゃないのかもしれないと思っているところなんです。

 

じゃあ、一体何の話なのか。

実は、まだ何が答えなのかハッキリとわかってるわけではないんだけど、一つ言えるとしたら、『勝手なイメージで言葉を扱っている』という事。

「勝手なイメージで話をする事なんて誰でもあるだろ?」と思うかもしれないけど、これもそういう話ではなくて、単語一つ一つの意味について『勝手なイメージ=勝手に連想して浮かんだ事を適当に当て嵌めて話を進める』という話。

 

具体例がないと分かりづらいと思うので、例えば「広告媒体」という言葉。

この「広告媒体」という言葉、調べるとこんな風に出てきます。

こう こくばいたい くわう- [5] 【広告媒体】

広告伝達する媒介手段。テレビ・ラジオ・新聞雑誌看板ダイレクト-メールなど。

この言葉の意味を読んで、疑問を感じる人や不思議に思う人はいないと思うんだけど、この『こうこくばいたい』という言葉を会話の中で聞いて、『広告媒体』という言葉を思い浮かべる事ができない人がいる。どういう事かと言うと『ばいたい』という言葉、この言葉をカタカナだと思っていたという人物が実在する。

 

他にも、土地の面積を表す『エーカー』という単位を、土地の面積や広さに関わる単位だと知らず(すなわち、土地の広さに関わる言葉であるという認識をしない状態で)意味は分からないが何かカッコいい言葉だと思っていた人物も実在する。

 

まだまだ類似の例はあって、『ダブルネーム』という言葉を『ダブルネール』だと思って使っていた人物(これは手書きの文字とパソコンのキーボードで打った文字の両方を確認)などなど、他にもたくさんの事例があったはずなんだけど、今は全部を思い出せなくて、もったいないような残念なような。

 

でも、伝えたいことは、この人物たちの頭の中で起きているのは、こうだという事。

つまり、アルコールもグラスもビールもバイタイも同じ扱いで、あくまでも『広告バイタイ』(なんのこと?)であって、『広告を伝達する媒介手段』だとは思っていない。

つまり、クマのプーさんが住んでいる100エーカーの森という言葉を聞いて「プーさんて、なんかカッコいい森に住んでるんだな」(カッコいい森って?)と思っていて、「とても広い森なんだな」という感想は持っていない。

つまり、ダブルネール(なんのこと?)というモノで、ダブル(二つの)ネーム(名前)を冠しているとは思っていない。

そして、これは「モノを知らない若者」という話で済むようなことじゃない。なんでかっていうと、若者じゃない人物も混じっている話だから。

つまり、知識とか情報とかで片付く話ではないという事だと思う。

頭が良い(勉強ができる)とか頭が悪い(勉強ができない)とかの話ではないんじゃないかなと。これも根拠があって、これらの人物たちは、世間一般で言うところの、「偏差値の良い学校」を出ている人も含まれているから。

 

この話の怖いところは、「モノを知らない社会人」とか「常識をわきまえない人達」とかそんな話じゃない。

怖いのは、この人達と会話をしている時には、『広告バイタイ』が『広告を伝達する媒介手段』としてのイメージを共有しておらず、我々には全くわからない『バイタイ』という何か別のモノ・事柄としてイメージされたまま話が進んでいるかもしれない事。

あれかな?アミノバイタルとかバイタル柔道とかの仲間なのかな?

プーさんが住んでる『100エーカーの森』は100エーカーもあるとても広い森というイメージを共有しておらず、我々には全くわからない『100エーカー』という何かカッコいい様子の森がイメージされたまま話が進んでいるかもしれない事。

あれかな?ビーカーとかシーカーとかディーカーとかタイプ別の森なのかな?

「ダブルネームで表記して欲しい」という依頼をしたとしても、『二つの名前を表記する』という事ではなくて、『ダブルネール』という、我々には全くわからない何かでイメージされたまま依頼を遂行しているかもしれない事。

あれかな?ネールっていう位だから両手の爪を使って何かするのかな?

イメージしている事柄が全然ちがうので、会話を構成する背景(バックボーン)が全く変わってくるはず。そうすると、会話の端々で一致してない事の方が多く、話の齟齬が確実に生まれているはずだ。

加えて、これらのケースに共通するのは、『言葉を音だけで捉えてる』という事。音なので、意味がわからなくても飛ばして話ができる。適当に連想した思いついたイメージからだけで成り立っている事柄で、その会話やこの世界を理解してしまう。

そして、更に怖いのは、この世界の日本という国の中でサービス業をしている会社の中のとある店舗では、多くのスタッフがこういう人達なのだ。

お客さんとスタッフの間で交わされるのは言葉を用いる事が一番多いはずなのに、こういう事が平気で起きているのだ。

 

これは、業務上で行う『前提の共有』をしたところで、到底解消できない。

できるわけがない。

 

上に挙げた例は、俺の身近に実在する例だけど、実はこういう人達は社会にゴロゴロしてるんじゃないかなと思っている。

というか、実は、身近じゃないところでもこういう人達の存在を聞くことが増えてきている。

今のところ見聞きしている話の登場人物たちは、同じ日本語という言語を操るはずの人達なのに、得体が知れなさすぎて、恐怖を感じる事もあるし、諦めそうになることもある。

 

だけど、全く言葉が通じない人達、例えば外国の人達とコミュニケーションをはかる際に、ホントに労せずして意志の疎通が可能になる場面を俺は何度も体験している事を思い出した。

 

『格闘技』を通じたコミュニケーションだ。

 

お互いの使っている言語、例えば英語と日本語はお互いにカタコトしか使えなくても、動きの中で、お互いに伝えたい事を伝え合う事ができたし、技術交流もできた。

特に、寝技の練習をしてる時には、その時の相手の思いのような感情のようなものもしっかり受信する事ができた気がしている。

 

なるほどそうすると、意志の疎通というかコミュニケーションをはかる試みはまだまだ諦めなくても良いのかもしれない。何をどうしたら良いのか具体的には全くわからないけど、何かのヒントはこの辺りにありそうな気もしてきた。

 

毎度のことながら、理解不能な状況を目の前にするといつも心が折れそうになるけど、今日の時点だと、前向きに考えられそうだ。

 

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