シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

『大人』の構成要素について

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先日、実家に遊びに行った時に、妹の子ども達に会った。


あんなに小さかった子ども達が、あっと言う間に小学校の高学年になっていた。
身長も160㎝はあるし、足の大きさも27㎝と、まだまだ大きくなる予感のする成長期真っ盛りだ。食べるご飯の量も、食欲も、40代の俺とは比較にならないくらいで、驚くほどよく食べる。とは言え、この年齢で運動をしている子どもだったら当たり前の量らしい。自分がこの年齢だったのは今から30年も前の話だから、あまり覚えていないのも当たり前だけど、確かにたくさん食べていたような記憶はある。最も、俺は彼らの年齢の頃はもっと背も低く体も小さかったので、ここまでではなかったのかなとも思うけど。
ともかく、体はずいぶんと大きくなって、あと半年と少ししたら中学生になるのかと思うと、時の流れの速さに少し驚いた。


そんなにすくすくと成長している彼らも、やっぱりまだまだ小学生なので、話す内容はいかにも小学生らしい話題で、みんなでやっているカードゲームや最近はまっているネット通信を使ってやるゲームの話で盛り上がっている。

 

かたや、今ではすっかり年老いた自分の母親にも会ってきた。
母親には時々会うのでそこまで大きな変化は感じないが、昔に比べればすっかり年を取って、いかにも「おばあちゃん」然としてきた。最も、彼女には孫が何人もいるので当たり前と言えば当たり前なのだが、それでもやっぱり昔の記憶と比べると年を取ったなあと感じる。そして、話す内容と言えば、年老いた自分の姉妹とのちょっとしたいざこざをさも大きな出来事かのように話をする。内容はとても他愛のない話だ。10歳以上年の離れたお姉さんが「いついつ遊びに行く」と言ったけど、当日になっても連絡も寄越さず姿も見せないから「どうしたんだろう?」と思って電話をかけたら家に居て「腰が痛いから出かけない事にした」と言われたと憤慨している。「せっかく色々用意していたのに」と。そして、その話を聞いたもう一人のお姉さんが、母親以上に憤慨しているんだ、なんていうそんな他愛のない話。

 

子ども達も親たちも盛り上がる話題は、世代間での話に寄っている。
そして、どの人達も俺からしたら他愛のない話に聞こえる内容が、当事者達にとっては、今の自分が直面しているとても大きな問題なのだ。
という事は、今の俺にとっての大きな問題や大事な話も、子ども達や親たちにしてみれば心の底から「どうでも良い他愛のない話」になってしまうという事なんだろう。

 

世代によって、変わる話題。
状況によって直面する問題。


でも、そのどれもが、自分以外の誰かとの間で起きる事柄だったりするのだ。
という事は、老若男女誰もが抱えているのは「対人関係」で起きる摩擦。

つまり、幾つになっても変わらないモノ。

 

そうすると、『大人』にはいつなるのか?
『大人』にはどうやったらなれるのか?
『大人』と『子ども』の境界線は何なのか?

 

もしかしたら、年齢とともに段々大人になっていくのは、肉体だけで、いわゆる社会的な意味合いでの『大人』というモノには、時間の経過や経験の積み重ねだけでは辿り着けないのかもしれない。

何を持っていて何を持っていないのか、はたまた、何か一つがあればそれだけで大人たりえるのか、それとも、何にも無くても何かをすることができるという事なのか。

 

そんな事を考えさせられる帰省だった。

 

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