シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

麦ちゃんの登場回数がぶっちぎり

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ここのところ夜に眠れないのだ。

だから、

眠るために強めのお酒を一杯だけ飲むようにしている。

 

これは最近の俺の状態を表している文章だ。

だけど、今日書こうと思っているのは「お酒を飲んでいる最近の俺について」ではない。

「眠れない俺」と「お酒を飲む俺」を繋げている接続詞『だから』について書こうと思ってる。

 

冒頭の文のように、

前の文章があって、『だから』があって、後ろの文章がある。

この時『だから』の役割は、

「前の事柄が原因・理由となり、後の事柄が結果・結論となる事を示す」。

これを“順接”という。

今、ネットで調べたら書いてあったことだ。

そして、

『だから』の使い方は、というか、“順接”の使い方はこれに尽きるのだ。

 

だけど、この使い方をしない人達がたくさん存在する。

 

例えば、

「ここのところ夜に眠れないのだ。だから、明日は晴れるようだ」

「ここのところ夜に眠れないのだ。だから、家が火事になった」

「ここのところ夜に眠れないのだ。だから、体に水分が行き渡った」

 

この三つの例文は、全く意味がわからない。

この時の『だから』は、順接の役割を果たしていない。

前の文が原因・理由になっておらず、後の事柄が結果・結論になっていないのだ。

つまり、『だから』を用いているのに、その話を聞いている側には一切の架け橋が見えない。

だけど、こういう使い方をする人達にたくさん遭遇するのだ。

 

なぜここに『だから』を用いるのか、

なぜ『だから』のあとにその話をするのか、

架け橋が無さ過ぎて理解できない話が多い。

だから、

俺は仮説を立てた。

ちなみに、今の『だから』は“順接”として機能していると思う。

話を元に戻して、

その仮説とは、

これは接続詞としての『だから』ではないのではないか?

この『だから』は名詞の『だから』なんじゃないだろうか。

 

え?

名詞の『だから』?

そんな『だから』の使い方あったっけ?

 

そう思ってしまった、そこのあなた。

 

実は、あるんです。

名詞の『だから』が。

 

この場合の『だから』は、

文字にすると平仮名ではなくアルファベット表記。

DAKARA』なのではないか?

あの清涼飲料水『DAKARA』なんじゃなかろうか?

 

つまりこういうことだ。

「ここのところ夜に眠れないのだ。DAKARA。明日は晴れるようだ」

「ここのところ夜に眠れないのだ。DAKARA。家が火事になった」

「ここのところ夜に眠れないのだ。DAKARA。体に水分が行き渡った」

 

この時の『DAKARA』には、何の意味も無く、接続詞ではもちろんない、ただの清涼飲料水がここにあるよという事を知らせる意味だけ。

「夜眠れない俺」「DAKARA」「明日は晴れる」という3語の羅列をしただけ。

これくらいのかけ離れ方をしていると、逆に文章として見栄えがするのかもしれない。

「夜眠れない俺」

DAKARA

「明日は晴れる」

これらの一語一語にそれぞれのストーリーを持たせて話を作ったとしたら、まあまあ面白い話になりそうだ。

 

例えば、こんな風に話をしているのが彼らの頭の中で繰り広げられている事なのかもしれない。

ただ、どうせ一語一語にストーリーを持たせた話をするんならば、『だから』は「DAKARA」である必要が無いのかもしれない。

その時の『だから』はもと全然違う言葉になってもいいんじゃないかなと思う。

 

例えば、ポカリスエットからのインスパイアで「ポカリ」、

例えば、ゲータレードからの「ゲータ」

例えば、アクエリアスから「アクエリ」

最早、何でもいいのではないか。

 

逆に、この新案を使った方が文章にキレが出るかもしれないとさえ思う。

 

「ここのところ夜に眠れないのだ。ポカリ。明日は晴れるようだ」

「ここのところ夜に眠れないのだ。ゲータ。家が火事になった」

「ここのところ夜に眠れないのだ。アクエリ。体に水分が行き渡った」

 

 

もう夏は終わったんだから、

熱中症対策そんなにしなくてもいいのに。

 

DAKARA以外の清涼飲料水はどうでしょう?

 

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