全ての道は筋トレに通ず
「俺は、今日できる限りの努力をできてるのか?」
昨日、『天才はあきらめた』(著:山里亮太)を読んでからずっと考えていた事だ。
ここ最近、体調を崩していたので、土日はいつものようにジムに行くことも無く、というかジムに行かないと基本的にはどこにも行く用事が無い事がほとんどだ。そんな、日曜日だったので、一日中家の中にいた。文字通り家から一歩も出る事無く、テレビを観たり、本を読んだり、PCで作業をしたり、誰かと話をしたり、ご飯を食べたり、おやつを食べたり。そんな、本当に何の変哲も無いアグレッシブさの欠片もない休日を過ごした。ただ、一つ、いつもの休日と違うのは、冒頭の言葉をずっと繰り返していた事だ。
とは言え、今日は1日中、子どもと一緒にいる必要がある日だったので、子どもから目を離して自分の時間を取る事は難しい一日だったけど、それでもずっとあの言葉が頭から離れなかったのだ。
結果、「今の自分にできる限りの事はしよう」という事を決めて、子どもを見つつ、隙を見つけては、本を読んだりしながら、少しずつでも自分の未来に繋げられるようにやってみた。
そして、1日が終わる今のこの時間に1日を振り返っても特に後悔している事は無い状態だ。もちろん、「やりきった」と言い切れるわけでも無いけど、この1日のスケジュールの中ではそれなりにできた方なんじゃないだろうか。
もちろん、自叙伝の中の山ちゃんの日々の努力と比べたら微々たるものなのはよく分かってる。でも、前の俺からしたらずいぶんと大きな進歩だ。以前の俺だったら、調子の悪い日とか、自分がやりたい事をやれそうな時間が捻出できない時には、「一切何もしない」という事を選択してしまっていた。「だって、これしかできないならやったってやらなくたって同じだから」という事を言い訳にして。
でも、今は違う。
「積み上げたモノをゼロにしないように、何もやらないという日を作らない」という事を自分の中で掲げているのだ。可能な限り継続をさせながら、継続がどうしてもできない場合にはできるだけ目減りさせないように、後退しそうな時はできるだけ後退させるスピードを遅くできるようにして。全ては、次のダッシュのための助走にするために。この辺りの考え方は、山ちゃんの自叙伝を読む前から考えて実行していた事ではあるけど、『天才はあきらめた』を読んでからは、更に強化された感覚がある。
全ては、「自分が楽しいと思える事をやって生きていく為」に。
天賦の才を持ち合わせていない人間が、こんな風に生きていきたいと思ったら、こんな風に生きていくしかないと思ったら、進む方向はただ一つだけ。
死ぬほど楽しんで生きていく為には、死ぬほど頑張る事もたくさんあるよね。
ほんと、ただそれだけ。