シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

少し時間もかかったし遠回りもしたけど辿り着くのはこういう事


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「すごい疲れた」

自分が、この言葉を使うのは、精神的な疲労を感じている時なんだなあと、今日あらためて自覚した。

肉体的な疲労は、眠気を伴う。例えば、ハードにトレーニングをしたとか、重労働とか、それらの後に来る疲労は大抵が眠気を伴ってやってくる。その場合は、因果関係のハッキリした疲労なので明確に、寝れば元に戻るのが分かっているので、心地好い疲労感だ。

ただ、精神的に疲労するとそうはいかない。心地よさは無く、ただただ疲労感が増幅して、重たくのしかかってくる感じがする。そういう時は、大抵が、精神的なストレスが強くかかっている時なのだ。それによって生じる疲労感。これは、寝ても回復しない事の方が多い。そして、その原因となっているものは自分ではコントロールできない事が多いのだ。

いや、コントロールできないというのは正確じゃないかもしれない。正確には、その瞬間には、その事象の受け取りかたをコントロールできない、と言う事なのだ。

そういう、自分がストレスを感じる事象の発生についてはどうしようもない。起きる時は起きるし、起きない時は起きない。自然現象と同じようなモノだ。もちろん、他人から向けられる言動によって生じるストレスもあるので、自分自身の言動がそれを引き起こしている可能性も考えられるが、できるのはあくまでも他人の言動を引き出さない可能性を高める事だけで、結局は他人の言動を外から完全にコントロールすることはできない。なので、自分自身の受け取りかたしかコントロールすることはできないのだ。

起きる事象は仕方ない。それは分かっている。俺の言動がその事象を引き起こしている可能性があるのも理解している。だからその事象の受け取りかたをコントロールするべきなのも良く分かっている。

だけど、

「なぜ、そんな事を俺に?」
そう思ってしまったら、もう止まらない。そこから先は、とてつもないスピードで沸き出る、負の言葉と負のイメージだ。そして、恐らくそれらの“負”によって引き起こされるストレスが、俺の疲労に繋がっているのだ。このストレスは、例え、美味しいものを食べたり、一般的に『癒し』と言われるような場所であるスパに行ったり、お酒を飲んだりという消費行動をしても、ほとんど、いや、全くと言って良いほど解消されることは無い。むしろ、それらの行動によって別のストレスが増えている感じすらするのだ。

これに対抗するには、やはり闘うしかないんだろう。

闘うと言っても、その言動を向ける相手とではない。このストレスの発生源になっているモノとだ。このストレスの元凶、それは、『何か』をストレスと感じてしまう己の器の小ささだ。それをどうにかするには、器その物を鍛えるしかない。それには、文字通り、『鍛える』しかないのだ。

つまり、「この体を鍛える」という事だ。そう、トレーニングするしかないのだ。それによって、様々な事象の受け取りかたを決定付けている俺の中の何らかのフィルターやセンサーを調整する必要があるのだ。

レーニングをすることで、日常で起きるストレスを発散させる。それとは別の種類の物理的なストレスを体にかける。それによって体も心も成長させる。

もうそろそろ、それしかないんだよなあって、渋々ながら、分かってきたようなのだ。