思えば遠くへ来たもんだ
今年初の出勤日。
世間は、三が日明けの金曜日という事でまだお休みの人も多いのだろう、いつも混む通勤路はスイスイ進み、いつもよりもだいぶ早く会社に着いた。
実に1週間ぶりに会社に行ったが、それ程久しぶりだなという感じもせず、行ってみると案外とこんなものだ。
いつも通り一番早い出勤でカギを開けるのが俺の役目なので、まだ誰もいない。
それから少し経つと、ぽつりぽつりと人が出社してくるので、来る人来る人と、「アケマシテオメデトウゴザイマスコトシモヨロシクオネガイシマス」と挨拶を交わす。
来る人全員とこの言葉を交わしていると途中で意味を失ってきてしまう感じが面白い。自分で言いながら、「あれ?今、アケマシテって言ったかな?アキマシテって言わなかった?」みたいな一人突っ込みを心の中で何度かしていたのもご愛敬。
始業するも、今日は会社としては有給休暇の取得を奨励している日なので、いつもの半分くらいの人数しか出勤していない。
もっとも、それでも十分業務は回る程度の仕事しかない事が見込まれているので何の問題も無いからなんだけど。
とは言え、そんな状況でも色々起きるのがウチの会社だ。
こんな穏やかな日でも、年始一発目の出勤でも、曜日的には一週間の終わりの金曜日でも、何かが色々起きるのだ。
だけど、俺の感情は特に動かない。
やるべき事を淡々と粛々と片付けていくだけだ。
一つずつ、ただ片付けていくだけ。
もちろん正確に言えば、感情は動いている。
俺の中では『怒り』は沸き立つし、『憐み』や『哀しみ』も湧いてくる。
だけどそれを表に出す事は無いし、出す必要も無い。
出したところで何も変わらないし、誰も得をしないのだ。
でも、俺にとって得るモノはたくさんあった。
起きた出来事について情報を集めて冷静に流れを追う事で、俺の中の“知識”が増えた。
ここで言う知識は、今読んでいる『ホモ・デウス』(著:ユヴァル・ノア・ハラリ)に出てきたところの、“知識=経験×感性”で言うところの“知識”の事だ。
(何のことやら分からないという人は、是非『ホモ・デウス』を読むことをお薦めします。
当たり前の事を、新しい概念として書いてあって、今まで感じてた違和感がすんなり解けて、するっと入ってくる感じが得られるかもしれません)
今まで、様々な事で翻弄されていた社内の彼らの引き起こす珍騒動からでも、“知識”を増やせる事が分かった事は俺にとって、とても大きい出来事だった。
それも全ては、タイミングの為せる業か。
意図して起こせたわけではないけど、何も考えてなかったわけでもない。
とは言え、考えるともなしに考えていたようなことでもあり。
考えていたと言うほど考えていたかと言うとそうでもなく。
事後的に、「気づいたらそうなっていたけど、そうなるようにとどこかでは思っていた」
と言えなくもないと言うか。
書いてるうちに段々と訳が分からなくなっていくけど、そういう感じなのだ。
こういう新しい気づきが、これまでに幾度となく起きてきたので、これも事後的に、「俺って結構色々考えていたんだな」と思えるような状態に、今はなっている。
「遠いとこまで来たんだなあ」
今日のように、そう思う事がたまにある。
これからも、いつでもそう思えるように、
経験と感性をぐるぐる回して進んでいくのだ。