シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

この世界には田中星児の歌が必要なのかもしれない

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今日は日曜日。

天気も素晴らしくよくて、気温も高め、まさにビューティフルサンデー。

という事で今日の昼間は家族で公園に行って遊んできた。

公園に行く前に、ちょっと買い物をしたので、せっかくだからという事で、今まで行った事のない公園まで車で行ってみた。

始めてきた公園だったけど、敷地面積がとても広く、子どもを連れて公園を端から端まで歩いていくのは相当な重労働になりそうだったので、遊ぶ内容によって車で移動をして場所を変える必要があったくらいの広さだ。

誰でも好きなように遊べる広大な芝生のグランドエリア、小さい子ども向けの簡単な遊具と砂場があるエリア、すこし大きくなった子ども向けの難易度低めなアスレチックがあるエリア、小学生中学年くらいまでは楽しめる難易度高めなアスレチックエリアがある公園だ。

 

この公園で日中たっぷり遊んだわけだけど、この天気でこの陽気なので、アスレチックエリアにはウチのような家族連れがたくさん来ていて、どの家族も思い思いに楽しんでいた。

 

こういう空間で必ず見かけるのが、『ひときわ目立つお父さん』だ。

 

もちろん、こんな書き方してるのは、どこでどんな人たちがこのブログを読むことになるかわからないからちょっと気を遣って表現をしてみたというだけなんだけど。

(なお、その人たちと言葉を交わして子ども達との関係性を確かめた事がないので「実は父親ではない」というケースもあるのかもしれないけれども、そこはパッと見た時に見える関係性から便宜上「父親」として話を進めている)

 

もうちょっと平たく言うと『ひときわ目立つお父さん=クソおやじ』だ。

何で見ず知らずの他所の家庭の父親を『クソおやじ』などと呼ぶのかと言えば、それはただただこの一点に尽きる。

 

「言動が目に余って俺と周囲を不快にさせるから」だ。

 

これは、あくまでも俺の目に余るだけで、俺以外の誰かがその言動を目にして何も思わないというケースもあるのかもしれない。

でも、俺の目に余るその言動は、その時点で既に俺を不快にさせている。

俺からすれば、それだけで、怒りを覚え、見ず知らずの他人を『クソおやじ』呼ばわりするには十分すぎる理由だ。

 

その『クソおやじ』の言動は、大抵の場合が一緒にいるツレ、特に子どもに向かっているケースが多い。

その言動の内容が極めてドメスティックな内容というか、その家族の家庭内で常に繰り広げられているであろうと簡単に想像できるような内容であることが多い。

 

例えば、今日みかけた『クソおやじ』はこんなケース。

・父親と男の子2人(幼稚園~小学校低学年くらい)で公園で遊んでいる。その3人でサッカーボールを蹴って遊んでいるが、父親は全力でボールを蹴る→ボールが遥か彼方に飛んでいく→父親が怒鳴りつけて取りに行かせる→取ってきた子どもがボール蹴る→全然狙った場所にいかない→父親が怒鳴りつけて取りに行かせる→取ってきてまた蹴る→狙った場所にいかない→父親が怒鳴りつける(以下ループ)

 

・父親が子ども達に自販機でジュースを購入→ジュースの飲み方を怒鳴りながら注意する→子ども泣く→泣いた事を更に怒鳴る

 

・父子3人がジュースを購入した自販機に、ベンダー業者の制服を着た若い男性スタッフがジュース補充作業をしているところに、結構離れた場所から父親が大声で「おい!さっき釣り銭が出なかったんだけど!」と声をかける→作業中のスタッフは気づかず作業中→もう一度大声で同じセリフを怒鳴る父親→気づいた男性スタッフが父親に顔を向ける→更に同じセリフを繰り返す→スタッフが作業を中断し、無言でその父親のところまで行き怒りを抑えた表情で小銭を渡すスタッフ→無言でスタッフにガン飛ばしながら受け取る父親→それを見てる子ども達

 

今日見かけたのはこんなケースだったけど、

『クソおやじ』に遭遇する事は、外出するとかなりの頻度であるのだ。

いわゆる親子連れが行くようなところには必ずと言っていいほどいる。

 

そして、この『クソおやじ』達は、実は男性だけとは限らない。

同じような態度でふるまっている女性、つまり、母親も少なからず存在する。

 

さらに、この『クソおやじ』達は、見た目が様々だ。

明らかにヤンキー崩れのヤツ、大人しそうなヤツ、ごく普通なヤツ、スポーツマン風なヤツ、「イケてる自分」感を全身でアピールしてるヤツ、エグザイル系なヤツ、「バリキャリです」感を全身でアピールしてるヤツetc。

 

つまり、ありとあらゆるタイプのヤツらが存在していて、性別も関係ない、「あの人は〇〇系だから」では括れないのだ。

これは、俺がここ数年間子どもと一緒に色んな場所で遭遇してきた事実だ。

恐らく、一般的に知られていて、尚且つ我々が日常生活を送る上でよく使用している概念や枠組みでは括る事のできない、でも何らかの共通点を持ち合わせている、そういう人達だという事なのだ。

 

また、『クソおやじ』達は決して、周囲に止められたり、介入されるような状況で子どもに手を上げたりはしない。その辺りも巧妙な意志を感じている。

そして、どのケースでも必ず、子ども達はその『クソおやじ』の言う事をきき、傍から見える様子から想像するに「慕っている」様子が伝わってくるのだ。

これが、本当に切ない。

だからこそ、とても不快にさせられる。

  

 

そんな日中の公園で、ふと、

「この『クソおやじ』達って、もしかしたら、健康社会学者の河合薫さんが提唱する『ジジイ』という概念に当て嵌まるんじゃないかな」と思った。

そう思って、河合薫さんの著書『他人をバカにしたがる男たち』を購入してみた。

今後、これを読み進める中で、ヒントが見つかるかもしれない。

 

ウチの会社の子たち以外に存在するかもしれない、この社会に蔓延している『ポンコツたち』の謎に迫れる手がかりが。

 

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