シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

50歳過ぎてもステージに立ってるんだからこれはもう天命なんでしょうか


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フラワーカンパニーズのライブを見に行ってきた。

結成30周年の年。そんな記念すべき年に、俺は初めてフラカンのライブに参戦した。CDでは散々聞いてきた。俺が聞き始めたのは、まだ20代の半ばくらいだったから、もうかれこれ20年近く聞いてる事にはなるけど、ライブには行ったことが無かった。行きたいと思うことはあったし、数年前に開催した、フラカン初の武道館にも「行きたいなあ」と思ったけど、自分自身の環境、特に金銭面と時間と言った極めて物質的で現実的な部分でこれまでライブを見に行く事は無かった。

だけど、彼らも30周年だし、俺もそろそろ40代の半ばに差し掛かろうかというところだ。自分とバンドの、これから先に残された時間の事を考えたら、そろそろ行っておかないと、「この先もう二度とライブに参加することができなくなっちゃうのでは?」そんな思いに駈られてしまい、いても立ってもいられなくなり、参加できそうな日程と場所の重なりを確認して、ようやくこの日を迎えることが出来た。

初参加の感想としては、当然、最高。それ以外の言葉は無い。今まで何度も何度も聞いてきたたくさんの歌が、生で演奏され生で歌われて生の空気を感じてきた。この目でみてこの耳で聞いてこの体で空気の震えを感じて、最高の一時だった。

会場には、若い人も年配の人もいて、恐らくファンなのであろう大人に連れられて来た小さい子どもや大きいこどももいて、幅の広い観客層だった。小さいライブハウスだけど、会場内は超満員というわけでもなく、まあまあたくさん入ってはいるけど、一人辺りのスペースとしては、そこそこの感じだった。

ワンドリンクでは、久々に飲むビールを頼みそれをあっという間に飲み干して、開演を待つまでの時間を心待にしながらじっと待った。体は静止しながらも、心の中はもうソワソワしっぱなしだ。これから一体どんなライブが始まるのか、それが楽しみで楽しみで。

メンバーが出てきて、姿が見えて、歌が聞こえて。それでもまだ何だか、視界の中の景色も、耳に聞こえてくる音も、ボンヤリというか、フワフワしているというか、なんだか膜がかかっているみたいにいまいち鮮明に見えないし聞こえない感じが続いている。理由はわからない。と言うか、痛いほどよくわかるのかもしれない。恐らく、現実にこれが起きているということの認知がずれたのだろう。治し方は分からない。でも、これに戸惑う事欠く、しばらくしたらもう平気だった。キッカケは特に無かったように感じる。俺の慣れなのか、それとも演奏と歌の力が勝ったのか、それ以外の何かなのか。

まあ、んなこたぁどーだっていいんだよ。高木三四郎風に言うとそういう事だし、内藤哲也風に言うと、トランキーロ!あっせんなよ!ということだ。
とにもかくにも、言いたいのは、俺が、フラカンと同じ場所に身をおいて、フラカンの存在を俺自身としてその全存在で対峙してきたというこの事実。
これまで、総合すると膨大な時間に渡りフラワーカンパニーズの歌を聞いてきた。相当な時間によって積み上げられてきた俺の人生における彼らの歌の存在感と俺だけの物語が、このライブによってまたあらためて煌めきだしたのだ。もちろん、俺のなかだけでの話ではあるが。めちゃくちゃに、最高に、ライブの中の照明くらいに耀き出したのを感じたのだ。

ライブが終わって時計を見ると、開演から約2時間。たったの120分しか経っていないのに、これだけの新しい物語を俺のなかに追加してくれたのだ。

たったあれだけの時間でこれだけのモノをくれて、これだけ色んな事を感じさせてくれる彼ら。さすが、俺の大好きな歌を唄い、俺の大好きな音楽を奏で、俺が大好きになったライブを見せて魅せてくれる、最高のバンドなだけはある。

俺が聞きに行けなくなって見に行けなくなるのが先か、彼らが歌えなくなってライブを演れなくなるのが先か。どっちが先かは分からないけど、そのいずれかがやってくるまでは参戦していこうと思っている。