シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

醜い浮き世の鬼を退治てくれよう桃太郎


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昔話の典型は、どうしてこんなに含蓄に富んでいるんだろう。

そう思ったのは、いつもの通り、昨日の社内での話の中でだ。

最近やっている仕事と、そこから広がりそうな今後の話をしていた時に、どうやって売っていくべきかの話になった。この仕事のどれくらい先にどんな方法でどの辺りを狙って着地させるか=『売る』を見越した動きをするべきなのか。それについて、これまでとこれからを合わせて考えて話し合いをしていた。すると、『売る』を大前提にして仕事の全体像を設計していたら、着地点が見えなくなっていた事に気づいた。

そこで気付いたのは、どうやら『売る』を目的にしてしまっていたらしいという事だ。だから、目的を正しい方向に修正して、みんなであらためて共有をはかった。

目的は『売る』ではない。サービスの対価として、お金をもらうのは目的ではなくて、ただの手段だ。
ごはんを食べるときに使う時の『茶碗』とか『箸』くらいの、単なる手段。別にそれが、『お皿』でも『スプーン』でも構わないのだ。ごはんが食べられさえすれば。食事の最大の目的は、栄養補給なのだから。食事において、器とか盛り付けとかの見た目のきれいさを大事にするのは、あくまでも栄養補給は叶える事ができるという大前提が整っているからだ。本質を失ったら、そもそも意味も価値も有りはしない。だから俺達は、『売る』を目的にてはいけない。その先にある俺達のサービスを利用することで得られる価値を受け取ってもらう事が目的なのだ。

だから決めた。自分からは売らない。いわゆる売り込みはしない。でも、知ってもらう必要はある。

そこでようやく出てくるのが『桃太郎』だ。

全ては、『桃太郎』の歌にあったのだ。あの歌詞を頭に思い浮かべて欲しい。桃太郎は、決して自分からは吉備団子を売り込んではいないのだ。後に、お供になる動物たちから先に声をかけているところから始まるのだ。

「桃太郎さん、お腰に付けた吉備団子一つ私に下さいな」

そして応える桃太郎。

「あげましょう。鬼の征伐に着いてくるならあげましょう」

これで話はまとまった。

そもそも、桃太郎はたった一人で鬼退治に向かうつもりで旅に出たのだ。吉備団子は自分で食べる為に持っていた貴重な食糧だ。それを「くれ」と言って食べたがる動物たち。分け与える桃太郎。そんな構図だ。

この時、需要は元からあったのか?供給する側が売り込んだのか?違うのだ。吉備団子の美味しそうな匂いを知った時に初めて動物たちの中に需要が生まれたのだ。元からは無かった。知ったからこそ生まれた需要だ。そして、供給する側は供給を目的に売り込んだのではない。自分が持っていただけのモノだ。自分の中には需要があり、自分自身に供給するためのモノだったこんな、自然発生的に出てきた取引の形なのだ。

俺達も、この桃太郎スタイルを目指す事にしたのだ。だから、『売る』は目的じゃなくただの手段だ。鬼退治によって訪れる自分達の生まれ育った場所の平和を取り戻すこと。それが目的だ。結果的に、桃太郎とお供の彼らは仲間になった。そして平和に暮らしていくのだ。

平和の為に戦うヒーローはカッコイイ。
桃太郎も、桃太郎侍も、みんなカッコイイ。