シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

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何回だってやり直す。

いつもそうしようと思っているはずなのに、いざ、その場面に遭遇するといつも思っているはずの「やり直す」が思い浮かばなかったりする事がよくある。

もちろん、そこからどんどん考えを深めていくといつも必ず「やり直す」にぶつかるので、最終的にはそうなっているんだけど、なかなかどうして、最初からできないのだ。いつも思っている事なはずなのに。

でも、よく考えれば、というかよく考えるまでもなく、「やり直す」という事が難しいのは当然なのだ。
「やり直す」という事は、何かをやり始めて進んだはずなのに、実は、進んでいたわけではなくて、良くて停滞か、悪ければ後退していたかもしれないことを、まずは自分で認めてその事実を受け入れなければできないことだからだ。簡単に言えば、「無駄なことをしていたかもしれない愚かな自分」を自覚したうえで、別の方法を最初からやり直す必要があるという事だ。

文字にするととても単純な事だけど、それまでにやってきた事が全て間違いで、かけてきた時間が全て無駄で、全ては己の愚かさであり、その上で新しい方法を考えて、そこから今まで以上の時間や労力をかけて物事に取り組んでいく。そして、それもまた徒労に終わるかもしれないという不安や恐怖を抱えながら取り組む。そんな事が果たして自分にできるのか?

そんな事を考えると、やり直すのはひどく億劫なのは当然なのだ。

それでも、目的を達成するために「やり直す」をするしかないんだとしたら、それでもやらないのか?それとも、ひどく億劫だしうまくいく保証は全く無いし面倒だし大変だし責任を負うけどやるのか?どちらかしか無いのだ。だとしたら、目的を果たすためには、やるしかないんじゃないかな。と、俺は思うのだ。もちろん、ここまでに書いたように、面倒で億劫で大変で辛くてできればやりたくないんだけど、でも、それよりも、目的を果たせないのであればそれこそ、今やり直すかどうかで考えている事以外の全ての事が徒労に終わってしまう可能性が高いのだ。であれば、己の感情よりも優先させるべきは、目的を遂げる事だろう。

そんな事を、仲間と話をしていて気付いたのだ。気付いてみると、「やり直す」しか道は無かったし、俺もみんなも薄々気付いていたけど、それがどれくらい大変な事なのかが分かってしまうだけに無意識に避けていた可能性があったのかもしれない。そんな自己欺瞞にも気づいてしまったので、気分としてはなかなかなよ落ち込みだけど、それよりも、「やり直す」ことでの先々の展望の拓け具合に、希望を見出だしてしまったので、ポジティブにしかなれないのが今の気持ちだ。

この先も、いつだって、何回だってやり直すんだ。