シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

何もかも焼き付くしてしまうまるで業火のようなヤツ


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やってみないと分からない事がある。

数日前からトレーニングの内容を変更したのだ。端的に言えば、扱う重量を下げてキレイなフォームを意識して目的の筋肉に効かせる事を重視しながら高回数やるというモノだ。専門的な知識によれば、同じ部位を狙うにしても種目の特徴によって高回数の方が発達しやすいとか、狙う部位の筋肉の性質によって高回数の方が発達しやすいとか、要はどっちともとれる情報が色んなところで語られているのだ。もちろん、語っている人の多くはトレーニングの実践者でそういう人達は大抵が俺よりも体がでかくてキレているのだ。つまり、どの情報にも信憑性があるという事だ。

だから、採用することにしたのだ。その全部を。特に、発達が遅く感じている胸と肩に関しては、高重量低回数も、中重量高回数もやることにした。筋肉が発達すると言われている方法のうちの一つは今までも試していたけど、その効果の程がいまひとつだった。だけど、効果がなかったわけでもないのだ。だから、それもやりつつ高回数という今までやってなかったアプローチも取り入れる事にしたのだ。

そんな新しい取り組みをやってみている感想としては、とにかくキツイ。本当にこれだけだ。このキツさを体験すると、今まで自分がやっていたトレーニングがほんのお遊びに感じられて仕方がない。あれでキツイって思ったり、追い込めてると思っていたのが本当に恥ずかしい。と同時に、こんなにキツイ内容ならそりゃ筋肉も発達するだろうと納得できてしまうくらいにキツイのだ。もちろん、狙った部位の筋肉はトレーニングが終わるともはや自分の体の一部とは思えないような感覚が襲ってくる。なんというか、その部位だけどこかにいっちゃったような感覚とでも言うか。とにかく、凄いのだ。

あとは明日のトレーニングをやれば、とりあえずこの新しい方法も体を一巡することになるので、今後どれくらいで効果を実感できるのかが楽しみだ。もちろん、効果を実感できないというオチも待っている可能性はゼロではないけど、少なくとも俺の体の体感では効果が出るのは確実だと言われている感じがするのだ。

ああ、でと明日の事を思うと憂鬱で気持ちが沈んでいくのだ。何しろ明日は、最高にキツイ脚の日だから。どうなることやら

ホントのクリエイトの目撃者


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もう何度目なのか覚えていないけど、「今回のはマジでスゲー!」そう言葉にせずにはいられない程に凄かった。

仲間が、ついに発明したのだ。新しいコネクターを。コネクターと言っても、機械とか器具の話ではない。概念の話だ。俺達の仕事を、世間の人にどうやって理解してもらうかについてこれまでたくさん思案してきたけど、それらのどれもが今一つだった。つい昨日までは「届く人には届くけど、大部分の人には届かない」という状態だったのだ。ここまでやってそうなんだから、そういうもんなのかなという事で一旦は受け取ってくれる人に向けてやっていくという方針でそこそこ反応も増えてきていたところだった。もちろん何とかしたいとは思っていながらも、どれだけ考えてみても俺には何のアイデアも浮かばない。

だけど、そんな状態を仲間が一気に打開してくれた。

元々、仲間がやっていたのは、自分が行う某所でのスピーチの原稿作成だった。そのスピーチの中で、いかに短く事業内容を伝えるかという事を考えてみたから聞いて欲しいと言われてその内容を聞いていたのだ。その中に盛り込まれていた発想と表現が、今まで俺達がずっとぶつかり続けてきた壁を一気に越えていくためのモノになっているんじゃないかと思ったのだ。そう思った瞬間、これまでにも何度も体感してきたあの感じが俺の全身を駆け巡った。

いきなり新しい世界に続く扉が開いたようなあの感覚。ずっとなんだか分からないけど何かが足りなくてモヤモヤしていたものが一つのピースによって全部理解できたようなあの感じ。何があるのか見えてなかった部分が見方を変えたらそれにしか見えなくなるあの感じ。そんな、アハ体験にも似た、一気に世界が違って見えるあの感じがやってきたのだ。

だから俺はもう安心した。もうこれで俺達の会社は大丈夫だ。これでどんな人にも俺達のやっている事を理解してもらえるという確実な手応えを得られたからだ。まだ外部の人には誰にも試していないけど、俺にはもう分かる。もうこれで大丈夫だって。これがただの楽観視じゃないことは、あと1ヶ月以内にハッキリしてくるだろう。この期間中に俺達には様々な予定が入っている。つまり、たくさんの人達にこのコネクターを使って手渡していく機会が待っているからだ。

そんな事を一瞬にして考えてしまった俺は、当の発明者である仲間を置き去りにして一人で高揚して興奮して捲し立てて、社内で仲間に完全に引かれるという、たまにしか無い状況を久々に産み出してしまったのだ。

すみません、取り乱しました。

でも、これだけは言っておきたい。

俺達は、これからメチャクチャに忙しくなるだろうから覚悟しておいて下さいね。

瞬間湯沸し器というアダ名を考えた人は本当に凄いよ


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どうにも我慢ならない事があった。

俺は、自分が何に怒っているのかよくわからないまま怒っている事がある。何を言っているのか分からないと思うけど、でも本当にその通りの事が起きるのだ。めちゃかちゃに頭に来て、怒り心頭に発すという状態になっているのにその理由が明確に分かっていない時がたまにあるのだ。もちろん、後々きちんと考えればよくわかるけど、その瞬間には何に怒っているのか分からない。でも、脳ミソよりも先に俺の体が反応しているような感じだ。

そんな時、一体何が起きているのか?そのメカニズムが少し分かってきたのだ。

それは、俺の言い分を一切考慮しないまま否定的な言動をされた時に起きるのだ。とにかく一方的に文句を言われた時、これまでの文脈を一切無視して一方的な要求を突きつけられた時、こちらの考えを求めておいて投げ掛けたら一蹴したうえで元々持っていたアイデアをごり押ししてきたとき、等々。そんな時にどうやら怒っているようなのだ。

なぜそれが分かったかと言うと、今日、立て続けにそんなことが起きていたからだ。それほど久々という訳でもないけど、こんなに自分で自分の怒りの感情に振り回されるほど頭に来たのは1年の中でもそんなにあることではない。だけど、その理由のうちの一つは中々にショボい。個人的には小さくないかもしれないけど大きな問題でも無いようなことなのだ。こんな時、自分の小ささをつくづく思いしる事になる。おれは本当に小さな男だ。もっとドーンと構えて、自分で気持ちの切り替えをパチッとできるような男になりたいのだ。でも、それはなかなか叶わない。いつもこういう時に思うのは、自分で切り替えたいと思ったときに気持ちを扱いやすい状態に切り替えることのできると本当に負担が少ないだろうなあということだ。

しかし、そういうわけにはいかないから人生は面白いのかもしれない。いい大人になっても、こんな事もできない自分という存在を思い知らされながらも、他の部分では自分でも惚れ惚れするような天才的な能力を発揮していたりもする。そうやって、良いところもあれば改善したいと思うところもあって、そういう部分が俺にとって俺が俺を好きでいられる理由なのかもしれないと思わされるのだ。でも、こんな他人が身近にいたらきっと俺は困るのだ。もっとなんとかなって欲しいと、一方的に思うだろう。まさに、自分の事は棚上げした状態で。そんな、理不尽さを持っていながらも、どうしようもない事で頭に来ながら、恐らく他の人間がどれだけ試行錯誤してもできないであろう事を、どうにかやり遂げる自分を眺めると、このアンバランスさを我ながら好ましく思ってくるのだ。

そんな事を考えると、どうでも良いような事で頭に来ている自分であってもなんとかかんとか頑張ってやっていくしかないんだよなあと思うしかなくなってくる。何の解決にもなっていないのも重々理解しながらも、まあこうやってやっていくしこないんだよなあということなのだ。致し方なし

何よりも付き合いが長くて深いこの体


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自分の体とのつきあい方について考えた。

一口に『体』と言ってもなんのことやら分からないという反応をされる。当たり前だ。体は誰にでも備わっているからだ。脳みそだけで生きている人間はいない。いるとしたら、ルパン三世に出てくるマモーくらいのもんだ。だから、誰にとっても体はとても身近なものなんだと俺は思っていた。そんな内容の事は以前も書いたので、今日はまた少し別の話だ。と言っても、大きく内容が変わるわけでもないと思う。ただ、俺がこの世界を生きていくうえで、自分の体をどんな風に扱って位置付けているのかというような話だ。

俺はこれまで体をたくさん使ってきた。多分、世間一般の人たちよりもかなりたくさん酷使してきたんじゃないかと思う。もちろん、俺よりも体を使って生きてきている人達がたくさんいるのも知っている。だから「体の専門家です」とは言わない。そういう人達はアスリートと呼ばれる人種だ。そのひとたちと比べたら大きな差が❤️るかなとは思う。でも、アスリートを除いた一般人の中では、自分の体というものについてそれなりに自覚的に生きている方だとは自負している。なにしろこれまでの人生において自分の体で味わった痛みや、自分の体を使った様々な実験によって、人体がどんな構造をしていてどんな刺激を与えると反応をするのかなどについて実践的に学んできたのだ。その結果、俺の体は多分俺の脳ミソよりも賢くなっているような気がするのだ。

俺の体は、脳ミソよりも速く反応する。例えば、相対した人間の攻撃を見て「こうやって避けるぞ」と考えるよりも速く反応してうまうこと避けてくれるのだ。それを実証するエピソードとしては、ボクシングで高等技術だと言われているスリッピングアウェイを誰にも教わったことも無いのに使えていたのだ。ちなみに、その瞬間に頭で考えていたのは「ヤバイ」という事だけだ。これは昔の話だけど、それくらい俺の体は賢いのだ。他にも、色んな体験はあるけど、ここに書いて挙げていってもそれが本当の話だと実際に証明する方法はないのでこの位にしておこう。でもまあ、俺が知っている自分についてはこういう認識なのだ。それを元に、俺は脳ミソよりも体が賢いと言っているという感じなのだ。

そんな、身体性を持って生きている俺は、その行動の全てが体をベースに活動しているようなのだ。例えば、本を読むのも身体性が関係してくるのだ。うまく説明がしづらいけれども、俺にとって読書は知識を増やすというよりも、自分の中に読んだ本の中身を取り込むような感じなのだ。少し大袈裟に言うと、本を読むことで実際には体験したことの無い事柄も、まるで自分の体験かのようにインストールすることができるのだ。できるのだとは大きく出た感じだけど、全ての事をというわけではないけど、実際にそういう感覚を持てるモノも実際にあるのだからまるっきりの「うそおおげさまぎらわしい」という感じでも無いと自負している。実際に、身体運用について本を読んで身に付けたものもあるのは事実だったりするのだ。

自分がそんな感じなので、結構最近まで、他の人もそういう感覚を持っているんだろうなと思っていたのは、恥ずかしながら本当の話だ。でも、どうやらそういう人は俺の周りにはあまりいないらしいのだ。こんな感覚を持ち合わせているという人にあまり出会ったことが無い。だから、身体性を強く持ち合わせた一般の人というのはあんまりいないんじゃないかと今は思っている。もちろんこれは、本を読むだけの話ではなくて、見るのも聞くのも話すのも行動するのもその他の様々な事にも同様の事があったりするのだ。一つ一つ書いていっても、これまで以上に何の話なのか分からなくなると思うし、これを文章で表現するには、俺の表現力の限界があるのでやめておくけど、まあそういうことなのだ。

そんな自分の身体性を伴った世界観と、脳ミソよりも賢いこの体が俺は結構気に入っているのだ。これだけ長々と書いてきて、最後にまとめるとこんな内容で終わってしまうというのもまあ俺の身体性故にということでどうか容赦の程を。

あー怖い怖いまんじゅう怖い


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今日は祝日だってことで、特に急ぎの仕事もないので会社には行かずに、ただただゴロゴロして過ごした。

最近、眠くて仕方がない症候群にかかっているので、今日もとにかくずっと寝ていた。寝ても寝てもどれだけ寝ても眠くて仕方がないので、今日はお昼まで布団から出なかった。そして、お昼御飯を食べた後に再び寝た。もしかしたら具合でも悪いんじゃないかと自分でも心配になるくらいに眠いのだ。しかも、昨日の晩は軽く頭痛もしていたからなおさらだ。もっとも、今朝起きたら頭痛は消えていたので、疲労か寝不足ご原因なんだろうとは思うけど、ここのところ結構長目に睡眠時間はとっているので本当のところはわからないけど。それでも寝ることができるうちは寝ておこう。

昼寝から目が覚めるともう遅めの午後で、そろそろ夕方とも呼べるような時間になっていた。重たい体をひきずりながらジムへ向かう。寝るかジムへ行くかの選択肢しか持ち合わせが無いなんて、この俺の存在をして『穀潰し』と呼ぶのかもしれないなんて思っているけど、それがどうしたとも思っている。ろくなもんではない。それにしても、祝日は道がそれほど混んでいない。夕方よりも少し早い時間、帰宅ラッシュもないのでジムまでスムーズに移動できた。

レーニングは肩の日。新しい方法を試してみる。とはいっても種目が変わるわけじゃない。セット数と回数に変化をつけるのだ。今までもこのやり方は知ってはいたけどやろうと思ったことは無かった。効果があるとは聞いていたけど、何故だかいまいち乗り気じゃなかったのだ。でも、今日やってみると、自分が乗り気じゃなかった理由がハッキリと分かってきた。

このやり方は、何しろ、ツラいのだ。

これまでもかなりツラいトレーニングだと感じながらやってきていた。少しずつではあるが体も変わってきて、効果もそれなりに実感はしていた。でも、何かが少し違う気もしていた。何と言うか、もう少しハッキリと成果が出てもいいんじゃない?と思っていたというか。とにかく、トレーニングの内容と体に反映される成果が釣り合っていないような感覚があった。なので、その原因がどこにあるのかを探っていって一つの仮説に行き当たったのだ。それは、これまでも知っていながらまだ試していなかった方法だ。それによってもたらされると言われている結果が俺の欲しいモノ=筋肥大=筋肉をでかくするという結果であり、それを試すしかないだろうと決断するに至ったのだ。方法は簡単だ。1セットで挙げる回数を、今まで10回目指しだったものを20回を目標にするというそれだけだ。つまり、回数を増やす=扱う重量を下げるということにもなる。個人的には、この、扱う重量を下げるというのが嫌だなあと思っていてどうしてもこの方法に踏み切れないんだと思っていた。でも、本当は違ったんだ。

本当は、20回がギリギリになる重さを挙げるのは今まで以上にキツイのだ。そして、そのキツさを予感していたから避けていたに違いないのだ。そこに、「重いのを扱わなくなって筋力が下がるの嫌だなあ」っていう理由をつけていた。つまり、自分の中の認知的不協和を、こんな理由をつけることで解消していたのだ。数多くの、結果を出している著名なトレーニーがみんな同じことを言っているにも関わらず。

これに気付いた俺のショックたるや想像できるだろうか?

とか言いながら、実際にはそんなにショックは受けていない。と言うより、ショックを受ける事ができなかったのだ。なぜなら、この新しい方法を試してみたら、これまで感じたことのない程のキツさを体感できたからだ。つまり、気持ちがショックを受けている程の心の余裕を作れるような状態ではいられなかったのだ。キツすぎて。

今日分かったのは、人間は、体が本当にキツイ状態=必死な状態にあると、精神的なショックを受ける事ができない。つまり、精神的なショックを受けるには心身ともにある程度の余裕が必要だという事だ。

これは、今後の自分にとって使える知見かもしれないぞ。いつでもこのトレーニングで追い込んどけば、精神的なショックはもう俺にはやってこないんじゃないか?そう考えると凄い発見だなあとつくづく思うのだ。

何しろ、あんなにキツイ事をこれからもやり続けないとならないんだって事を自分で明確に思いしったわけなんだから。嗚呼、トレーニングが怖い。まんじゅう怖い的な意味じゃなくて。いや本当に。

ダイエットおじさんの哀愁


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どうしてもやりたくない時がある。そんな時、みんなどうしているのか?

今日も仕事を終えるのが遅くなった。遅めの時間になるといつも思うのが、「ジムに行かずに家に帰りたいなあ」だ。遅い時間まで仕事をすると、体がなのか頭がなのか全身がなのか、とにかく疲れるのだ。そうなるとジムに行くのがとても億劫になる。めんどくさいとか、やる気が出ないとか、そんな感じで、今すぐ家に帰って風呂に入って横になりたいと思うのだ。だけどもちろんそういうわけにはいかない。なぜなら、俺は痩せないといけないからだ。ダイエットをはじめてちょうど二ヶ月が経った。開始時と比べればかなり痩せた。穿けなかったズボンもすっかり穿けるようになったし、トレーニング用のベルトももう一番奥の穴しか使っていない。それなのに、まだお腹の脂肪は残っているので腹筋がバッチリ割れている状態ではない。まだ落とせる脂肪がたくさんある。脇腹にも脂肪がのっているし、全体的なフォルムがまだまだカッコいいには程遠いのだ。

自分の体が、自分から見てカッコいいには程遠い状態だっていうのはなかなかに気分が悪い。どんな体型であっても自分で自分に満足がいっているならそれはとても良い状態だ。だけど、俺はそうではない。ここ1年以内の間で自分史上過去最高の状態に仕上げたことがあるばっかりに、その状態になんとか近づけたいといつも思っている。とは言え、トレーニング再開してまだ二ヶ月しか経っていないので、サボっていた期間の約半分程度しかトレーニングしていない計算になるのだから、元に戻るわけはないのは重々承知している。とは言え、これだけやっているんだからと思う気持ちもある。まあ、純粋に12kg の脂肪を身に纏ったんだからそれを全部落とさないと元には戻れないし、二ヶ月で約6kg程度しか痩せられていないので元に戻っているわけはないのもハッキリとしているんだけど、できる限り早くなんとかしたい。そう思うと、やっぱりジムに行くしかないかと諦めもつく。

気乗りしないのは、今日が脚の日だということも大いに関係している。脚の日はキツイ。一番避けて通りたいトレーニングの日だ。やっているといつも途中で気持ち悪くなる瞬間がやってくる。それがスクワットとレッグプレスとその他の種目をやっていると時々やってくるのだ。まあ、トレーニングをやりはじめてしまえばある程度の覚悟は固まるのでそれほど問題にはしていないけど、やっぱりそういうキツイ事が待っていると思うと、ジムに行くまでの時間がとても地獄的要素を多分に孕んでくるのはもう仕方がない。いつもの事ながら、「あー、行きたくない」と声に出しながらジムに向かうのだ。だけど、これもいつもの事ながら、終わった後の達成感と充実感は本当に最高なのだ。

そして、トレーニング終了後の脚のガクガク具合もいつもの事だ。もはやまともに歩けてはいない。まさに、生まれたての子鹿の如く、脚をガクガク震わせながらジムを後にして、真冬の夜の空の下を、40代半ばのおっさんが独り歩く。

こんなに切ない光景が他にあるのだろうか。いや、無いに違いない。

それでも、きっとまたおっさんはやってくるのだろう。行きたくないとブツブツ呟きながら、痛む身体をひきづりながら。

流されているように見えても実は流れに棹さしているのかも


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ここ数日、眠くて仕方がない。

朝も早起きしているわけでもなく、特別に睡眠不足というわけでもない。それなのに、夜9時頃には眠くて起きていられなくなる。もちろん、お酒は飲んでいないのにだ。理由はよくわからない。ジムでトレーニングしていて疲れているからなのかとは思うけど、ついこの間までも同じような生活をしているから特に変わった事は無いはずなのだ。かといって、どこか具合が悪いわけでもない。むしろ、たくさん寝ているので体調は良い感じだ。

原因は一体何なんだろうか?考えてもよくわからないし、特別困ったことも起きていない。たくさん眠れて、起きた後の体調も良いとすれば、悪いことなんて何もない。唯一困ったとすれば、本を読む時間が減っている事だ。土日で本を読む量を増やさないと月間の目標が達成できなくなってしまう。もちろん、ただ読めばいいってわけじゃないので目標はあくまでも目標でしかないんだけど、この目標をクリアしていく位じゃないと俺の中の色んなモノを底上げして、それを仕事にも活かしていくのは難しいような気がするのだ。言うなれば、俺という存在に対する地道なトレーニングのようなモノなのかもしれない。

体に対する物理的なトレーニングも、地道に継続して目標を立てながらその目標に対してどうだったのかなどのフィードバックを行いながら本当に少しずつ進んでいって、気が付いたら大きな変化をしているように、読書も継続したモノの積み重ねで得られる何かがあるはずなのだ。これはもう体感的にとしか言いようがないけど。だから、本を読む時間も必要なのだ。トレーニングも必要だし、読書も必要。もちろん仕事も。それらのどれが欠けても自分をフルに活かして進んでいくのは難しいだろう。だからこそ、時間の確保は大切なんだよなあと思うのだ。

でも、こういう体に起きるコントロールが難しい現象は、きっと何らかの理由があって起きているはずなのだ。だから、なるべく逆らわないようにしておくのが恐らく賢明なんだろう。俺が自覚できていない部分でなんらかの修繕が成されているはずなのだ。こんなに眠いということはきっとこの体の中で「休ませろ」という要求が出てきているってことなんだろう。だからそういう時は、しっかり休む。抗っても仕方がないし、無理矢理それを押さえ付けると、不調や異常として何らかの形で噴出してくるはずなのだ。

そう考えることで、とてと気持ちよく数時間眠る事ができた。そしたら夜中に目が覚めちゃったので、これを書いてから少し本を読もうと思う。お酒は飲まないので、その後寝付けるかどうかはわからないけど、きっとまた眠くて仕方がない状態になるんじゃないのかな。そう、期待している