シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

人体の不思議 身体の不思議

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体は賢い。

 

そう感じる事が多い。昨日の『餅つき体験』もそうだけど、俺は、頭で考えた事よりも体で捉えた感覚の方がずっと後まで忘れず残っている。というか、例え忘れていても、同じ感覚を捉えた時や同じ感覚に近づいた時に明確に思い出す。

「何がどう」というのを言葉にするのは難しいけど、ものすごい気持ち良い感覚が体の中から湧いてきて、頭の中を満たすような感覚だ。

 

『ある日突然“分かった”が手に入る感覚』とか『自分の段階が上がった感覚』とか『今まで見えなかった世界が見える感覚』というのは多くの人が経験してるかもしれない。それらがあるといつも決まって『この先にもずっと世界は広がっていてもっと先まで行ける感覚』がやってくる。

 

これらが手に入るのは、俺はそういう感覚を体を動かす事で得られる場合が多い。

もちろんこの“体を動かす”には実際のいわゆる運動を伴うケースが多いけど、それだけじゃなくて、人との対話によって得られる場合も多い。ただ、昨日の『餅つき体験』後に自分の感覚を振り返っていて思ったのは、運動を伴った場合の方が得られる感覚の幅が広いと感じたのだ。

これも振り返ってみて気づいたんだけど、恐らく、体を動かす運動それ自体が、意識的であれ無意識であれ脳をはじめとした様々な感覚器や筋肉と腱と骨と神経がそれぞれ瞬時に様々な事を感じて動いた結果の集大成としての“動き”になってアウトプットなのだ。そして、そのアウトプットを今後は逆から辿っていく事で、アウトプットを紐解いていってそれを考える材料にして、またアウトプットまでを考察して再構築していく。そんな事が行われたんじゃないのかなと思っている。

だから、この場合の運動もたまたま一回できただけの偶然ではなかなか考察するには難しく、何度も試行錯誤して繰り返したものだとより精度も高まる。

そんな理屈なんじゃないだろうか。

 

今まで、運動をそこまで考察した事が無かった。というか、運動は運動としてしか捉えていなかったという方が正しいのかもしれない。運動を分解して考えるという事をあまりしてこなかったのだ。もちろん、多くのスポーツ愛好家からアスリートまでが広く行っている“運動を動作まで分解して考察する“というのはやってはきたけど、そういう事じゃなくて、体が思考した結果のアウトプットが運動だとして考えてみる事が無かったのだ。

 

そう考えてみると、運動や動作というのはとても優れた体を駆使したハイレベルなアウトプットの集合体で、体は様々な事を考えて動いていて、脳が考えるそれより前に体が感知して無意識のうちに反応して動き出すというような脳を超えた事も可能にしている。つまり、脳を超えるのは体なのだ。

 

脳の代わりになる物として、最近は“AI”が巷を騒がせている。

“AI”は人間の脳よりもずっと優れている部分が多く、とって代わられる可能性が高い。特に、「○年後には、仕事を奪われる」と戦々恐々としている人達がいる。それくらい、“AI”の能力は驚異的に優れているのだ。

だけど、“AI”にとって代わられないモノがある。それが、体だ。

物を運ぶという意味の運動であればロボットがあるので「体だってとって代わられる可能性があるだろう」という話もあるのかもしれないけど、今日ここに書いてきたようないわゆる『体の感覚』というモノは恐らくとって代わられる事は無いだろう。

何故なら、この『体の感覚』は恐らく誰も解明できていないからだ。解明できていないと断言しているのは、この体の感覚を数値化する事ができないからだ。だから解明できない。汎用性のあるモノにしてその数値を上げていくという事ができないのだ。全ては、各個体によって体感するしかない感覚であり、それを体感するという事は体感するまでどういう事か分からないし、他人からはその感覚を体感しているかどうか、体感したかどうかは全く分からない。あくまでも、本人からの自己申告とその後の行動によって見極めるしかない。本人にしか分かり得ない事なのだ。そんな代替の効かないモノであり、自分自身にとって唯一無二であり、“他の物”例えばお金とかでも換える事ができないモノなのだ。

それを手に入れる事ができるのは、自分の体を通して体感した時のみ。それ以外は無い。

 

だからこそ、とても優れているのだ。

 

そんな、とても優れている賢い体が捉えた感覚を逃さないように、気のせいだと思わずに考える材料として使っていく。それがとても楽しいという事を思い出した。

 

体も頭も、どっちかだけにならないように。

どっちも大切に鍛えていけば、今よりもっと楽しくなる。

 

賢い体も「賢く幸せに」生きる為には必要だよね、きっと。