シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

物語が始まる!その時、どうやって始めるか?


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仕事をしていると、人は「二種類に分類される」というの場面によく遭遇する。

まず一つ目の分類は、
『世界は権利と義務で出来ているタイプ』だ。

このタイプは、その分類の通り、まず権利の主張をする。それから、その権利を行使する代わりに義務を果たす。そうやってこの世界は成り立っていると認識している人達だ。

この説明だけだと分かりづらいかもしれないのでもう少し捕捉する。
例えば、この分類の人達が仕事をするとどういう事が起きるのか。
この人達は、"指示された事だけを遂行する"のだ。言葉通り、指示された事"だけ"をやるのだ。つまり、指示されていないことはやらないのだ。例え、常識的に考えれば、その指示が出たということは、この範囲の事まではやらなければ成立しないよなという場合であっても、指示されていなければやらない。
何故ならば、それは、義務ではないからだ。この人達にとっての義務は、「指示された事だけを遂行する事」なのだから。それによって、権利が守られるのだから。
だから、この人達は、まず権利が保証されているかどうかの確認に余念がない。その上で、権利が本当に行使できるかどうかを気にする事への労力は惜しまない。だから、仕事をする上で「どうしたら目的を果たせるのか」を考える事はしない。そこまでの義務は、自分に保証されている権利にはついてこないと考えているからだ。
あくまでも、権利は"自分ではない誰か"に保証されているモノでなければならないのだ。だから、自発的に考えて、リスクをとって行動をして、それによって手にはいる己への大きなリターンというモノには全く食指が動かないのだ。と言うより、むしろ、そんなモノは嫌悪の対象なのかもしれない。なぜなら、そういうモノを求めるということは、「権利と義務の世界」から脱却してしまう事になるからだ。だから、原理的に、この世界で生きてる人達には、何をどういう風に働きかけても変化することは無いのだ。何故ならば、主体的に自分で考えて判断して行動する事ができる人は、そもそも周りからとやかく言われる事は無いはずだからだ。

対してもう一つの分類は、
『世界は贈与で出来ているタイプ』だ。
このタイプは、権利と義務の人達とは対称的だ。まず、自分の行動から始まるのだ。そこから、世界が動き出す。そう認識しているのだ。だから、まず、やる。それに対する周囲のリアクションで次の行動に続く。そういう連続性の中で生きているのだ。だから、行動も自発的になるし、考えられているのだ。なぜなら、贈与という行動は、自分以外の他者について考えないと始まらないからだ。そうなのだ、仕事をするうえで絶対に必要な「相手の立場に立って考える」という事がスタートで出来ているのだ。だから、こういう人達の仕事はうまくいく。自分以外の人の為に行動が出来て、自分以外の人の為にモノを考えられるのだから、当たり前と言えば当たり前なのだ。

『世界は権利と義務で出来ているタイプ』は、発想の全てのベクトルが"自分"に向いている。
『世界は贈与で出来ているタイプ』は、発想の全てのベクトルが"他者"に向いている。

この違いが、ありとあらゆる違いに繋がっていく。それが、最近、様々な人達の『仕事』を見ていてハッキリと分かった違いだ。

そして、この違いこそが、
『世界の主役として生きている人』と、
『自分の人生の主人公として生きている人』の違いなのだという事がハッキリと分かった。

主役は所詮、誰かから与えられた何かの役回りに過ぎない。
そんなものに固執せずに、皆が、各々の人生の主人公として生きる事ができれば、もっと自由に、楽しく、幸せに生きていく事ができるはずなのだ。

世の中を見れば見るほど、知れば知るほど、この概念が間違っていないという検証がどんどん進んでいく。

そんな事を、今日の仕事を通じて、あらためて考えた。