シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

チャレンジスピリッツさえあればどこまでも行けるのだ

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「挑戦が今の私のテーマです」

 

新人の女性社員がそう言った。

 

彼女が入社してからちょうど3カ月。新人としての一つの山場である新人研修の集大成とも言える店舗接客のロープレテストを終えた時にこの言葉を言っていた。

 

“挑戦”

とても良い言葉だ。

決意や覚悟をそこはかとなく感じる言葉だ。強い意志を感じる。この言葉を使う人はこれらを持ち合わせた魅力的な人間なのかもしれない。

そんなイメージを抱かせるような言葉だ。

 

だからこそ、この言葉を使いたくなる気持ちはわかるし、自分を鼓舞するのにはとても適しているのかもしれない。

何より、この言葉を使う事で、それを聞いている相手に対して「意欲的である」と受け取ってもらえる事が容易に想像できる。

 

だけど、本当に挑戦をしているかどうかは、その人の言動を見ればすぐに分かるのだ。

 

「それがあなたにとっての挑戦なの?」

そういう評価的な目線を受けるのも承知のうえでいないと“挑戦”という言葉を人に向けて使う事はできないはずなのだ。

 

誰が何を言うのか、それは言う人の自由だ。

だから、どういうつもりで“挑戦”という言葉を使うのかはそれを使う人の自由であるのは間違いないし、自由でなければいけない。それは絶対にそうなのだ。

だけど、それと同時に、誰かが言った言葉をどう受け取るのかも、それを受け取った人の自由だ。これも絶対にそうでなければいけないのだ。

だからこそ、何を言うのかについては慎重にならなければいけないはずだ。

そして、それが仕事に於ける言葉であれば、プライベートの場面で言う言葉以上に慎重になるべきなのだ。何故なら、いち私人として“自分の看板”だけで発言しているわけではないからだ。仕事に於ける言葉は、“自分以外の看板”もたくさん背負っている。だから、発言や行動には慎重になる責任が発生するはずなのだ。

 

何を言うかは自由。

だけど、その自由には責任が伴う。

例え新人だろうとベテランだろうと、これについては皆同じだ。

 

「挑戦が今の私のテーマです」

 

そう言った新人の女性社員の言葉を受けて、その行動をしっかりと見届けるのが上司である俺の役割なのだろう。

 

あなたの言う“挑戦”が一体どういうモノなのか、その覚悟をしっかり見せていただきます。