己の内側にある揺るがないチカラ
今日は、録画してあった『ワールドプロレスリング』を観た。
現IWGPヘビー級チャンピオンのジェイ・ホワイトvsNEVERチャンピオンのウィル・オスプレイの試合だ。
試合内容はとても面白かった。試合中の各所での技の切り替えしが今までに見た事のないような新しい切り替えしや、想像の上を行く切り替えし方などが多くてとても興味深く見れたし、最後までどっちが勝つかワクワクしながら観る事が出来た。
ジェイ・ホワイトは、基本的には派手な技は多用せずインサイドワークで試合を作っていくレスラーだ。だけど、技自体は地味目なモノながら、彼の動きや仕草一つ一つに華があるので、彼がその技を使うことによってそれ程地味な印象を与えない。それによって、試合自体に華が出てくるのだ。
対して、ウィル・オスプレイは、基本的には彼にしかできないような派手で複雑な動きの技が多い。だけど、特殊な技に頼るだけではなくて、技を使うタイミングや技と技の組み立てがとても巧い。それに加えて、彼は感情を前面に押し出すのが上手い。それによって、試合全体に魅力が出てくるのだ。
この二人が対戦する事によって、とても面白い試合になった。
但し、最後のフィニッシュへの流れだけが微妙だった。
何故なら、フィニッシュムーヴになったジェイ・ホワイトの必殺技である“ブレード・ランナー”の直前の技が分かりづらかったからだ。あまりの分かりづらさに、TV放送では技のリプレイが出て、TV向けに解説まで入ったのだ。それ位、分かりづらかった。
「分かりづらかった」というのは、観ている人達に「それが何の技なのか伝わらなかった」という事だ。
プロレスを観ている人達は、「誰が技を喰らったのか」「その技は、どの箇所にどれくらいのダメージがあるのか」これを見た目で判断する。だから、見た目でその技が「誰が喰らったのか・どれくらいのダメージがあるのか」が分からなければ反応もできないし、試合を観ていて説得される事もない。それが、試合を決定する必殺技の直前に起きたのだ。
だけど、俺が驚いたのはその後だ。
あんなに分かりづらい技の後に、しっかり必殺技を決めて試合を終わらせたのだ。そこには、その技を喰らったオスプレイのダメージが見ている人にも伝わる程だったというのがある。それに加えて、技をかけたジェイの「これで試合を決めるぞ」という表情と動きだ。これによって、あんなに戸惑っていた観客もTVを観ていた俺も皆が一様に説得されて、ジェイのフィニッシュに納得する事ができたのだ。
この時、俺は、昨日観た映画の『カメラを止めるな!』を思い出した。
映画とプロレス、とても遠い場所に存在しているようなモノだけど、この二つには共通点がたくさんある。挙げていけばキリが無いが、その根底には“エンターテインメント”があり、“観客を楽しませる”というモノがあるし、“作り手と観客との真剣勝負“という側面もある。
この辺は、映画とプロレスだけに収まらず、様々なジャンルでの共通点なのかもしれないが。
とくに、『カメラを止めるな!』の映画の内容とはとてもリンクする部分が多くあるんじゃないかと思ったのだ。
例えば、40分間のワンカット撮影という部分は、プロレスのようないわゆる“ライブ”という部分と共通点がたくさんあるだろう。“何か”が起きても、それをそのライブの現場でキッチリと“試合”として成立させて観客を納得させる必要がある。
そういう意味では、今年の1.4東京ドームでのNEVERタイトルマッチでの飯伏幸太vsウィル・オスプレイの試合も、これと同じような状況だったと想像できる。
つまり、プロレスラー達は常日頃から『カメラを止めるな!』と同じような状況を日常的に経験しているんじゃないだろうか。
そう思い至った時に、俺の中で色んな事が繋がった気がしたのだ。
昨日『カメラを止めるな!』を観た時の、高揚感と感動が入り混じったようなあの感覚。それはきっと今書いたようなところからやってきたんじゃないだろうか。
今日『ワールドプロレスリング』を観た時の、高揚感と感動が入り混じったようなあの感覚。これもきっと同じようなところからやってきたんだろう。
そして、仕事に於いて、想定外の出来事に直面して、様々なモノを駆使してその出来事を乗り切った時の、高揚感と感動が入り混じったようなあの感覚。
これらは、恐らく、全てが同じところからやってきてるのだ。
それを、今日、確信した。
これまでも事あるごとに言ってきたし、常に心の中でそう思っている事だけど、あらためてここに書いてみる事にしよう。
俺は、いわゆるプロレス団体に所属しているわけではないし、いわゆるプロレス団体の運営するリングには上がっていない。
今のところ、関東某県の中小企業に所属している一介のサラリーマンだ。
だけど、
俺は、俺の人生というリングに上がって、俺の生き様というプロレスをやっている、シオタというプロレスラーなのだ。
俺にとって、プロレスとはプロレスだ。それ以上でも以下でもない。そして、俺は常に俺の生き様というプロレスをやっている。つまり、俺はプロレスラーだ。
これまでずっとそう思って生きてきた。
これからもずっとそう思って生きていく。
NO プロレス
NO LIFE
それだけだ。