シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

「未来は僕らの手の中」の「僕ら」って誰の事なんだろう


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今日は朝から近所の投票所に行ってきた。

時間帯なのか、地域性なのか、曜日なのか、そういうのが大いに関係しているんだろうと思いたいけど、投票に来ていたのはどう贔屓目に見ても“ご老人”としか言い様のない人達しか来ていなかった。
というか、その”ご老人“達からは、選挙に対する関心というか、熱のようなモノすら感じたのだ。
と言っても、そこかしこで議論が交わされているわけではなく、脚が痛そうだったり杖をついたり等をしていて例外なくみんな体の調子が悪そうなのに、自宅から自力で来ているのだ。

選挙に対するモチベーションが年代によって違うのは、ある意味では仕方ないのかもしれない。
選挙に行かない人には行かない人なりの論理があるんだろう。

だけど、やっぱり、“変化”を起こす事のできる可能性を生むためには、現状では投票をするしかないのだ。

俺は投票したから、今後の政治に口を出す権利があるし、もちろん政治の動向を見定める責任もある。
それを踏まえて、未来に対して責任を持てる行動をする必要がある。

これからのこの社会が、これからこの社会を背負わされながら歩んでいくことになる若者達にとって、希望をもって生きていける未来になるように。

タワーレコードは、
「NO MUSIC , NO LIFE 」と謳っている。音楽がこの世界から無くなったら人生はかなり味気ないものになるだろう。音楽によって様々なモノが彩られているのは事実だ。今日観ていたRIZIN だって、音楽が無かったら、試合を観る人は激減するだろうし、音楽によって日々に希望を見出だしている人達はたくさんいる。

ならば、この世界は、
「NO HOPE, NO FUTURE 」と謳うべきだ。

この世界の、いわゆる『仕事』と呼ばれるものは、誰かの・皆の“希望”の為に行われているものであるのは今更説明するまでも無い明白な事柄だ。
それは、政治も例外ではない。というより、政治はその為だけに存在しているモノだろうし、そうでなくてはいけない。

みんながみんなの希望の為に。

希望とは、今この瞬間の話というよりも、今よりも先の時間が今よりも良くなると信じられる事だ。つまり、希望は未来であり、未来は希望なのだ。

そして、未来を創るのは今だ。

選挙なんて、未来の話をするときには、そんなに大した要素じゃないかもしれない。
でも、 もし、そうじゃなかった時には?

そんな要らない後悔をしない為にも、未来のこの社会を当事者として生きていく自分よりもずっと若い世代の人達の為にも、これから産まれてくるかもしれないまだ見ぬ未来の人達の為にも。

実は、多くの“現役の”若い世代の人達が、俺とは全然違う時間帯とか期日前投票とかに行っているんだという事実が山ほど転がっている世の中に、既に成っているのを望んでいる。
社会を当事者として生きていく自分よりもずっと若い世代の人達の為にも、これから産まれてくるかもしれないまだ見ぬ未来の人達の為にも。

 


と、ここまで書き終わった瞬間に、東京都北区の区長が84歳で最高齢で当選したと流れていた。現職が4回目の当選だそうだ。
俺の住んでいる地域の候補者達も、ほとんどが40代前半の俺から見ても“ご老人”がほとんどだ。
テレビで日本各地の候補者や当選者を見ていても“ご老人”ばかりな気がするのは俺の気のせいなんだろうか。
果たして、これは、各地域だけにおける個別の事例としての話なのか、それともこの国か抱える何かを表しているのか。

この社会の未来は、長く生きている長老達の手に委ねる。
「それが最善の方法なんだ」という民意ってやつが『選挙の結果』というモノに色濃く反映されているんだろうか。

ホントにそうなんだろうか?