シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

自分のスタンドを操る為に必要なこと


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今日は子どもを連れてアミューズメントパークに行ってきた。

そこは、規模も小さくて地元民以外にはそれほど知名度も無いような場所だけどさすが土曜日というのもあってか、それなりに家族連れが訪れていた。

そこは、いわゆる対象年齢が低めの子どもに向けたアトラクションが多い。その中に、『不思議な体験ができる』を売りにしたアトラクションがあった。書いてある謳い文句を見るとどうやら、だまし絵効果などを使っている印象だ。それを見て、子どもがやってみたいと言ったので入るつもりで、入口まで行ってみた。設置してあるモニターからキャラクターの説明が流れていた。それを最後まで聞き終わった子どもは、「怖いからやっぱり入るのやめようかな」と一旦引き返す事になった。内容には怖さの部分は無かったように見えたが、子どもにとっては「不思議な事が起きるよ」という言葉が、「(オバケが出て)不思議な事が起きる(だから怖い)よ」に聞こえたらしいのだ。

そこからの怖がり方はなかなかのものだった。それでも、中止せずに入ったのは、後で聞いたところどうやら『好奇心』だったようだ。でも、それだけの好奇心を持ってしても、オバケが出るかもしれないという『恐怖』を克服する事は難しかったようだ。アトラクションの中を進んでいる間中ずっと震えながら泣きそうになりながら進んでいった。俺から子どもにどれだけの声かけをしてもその『恐怖』を払拭する事は出来なかった。でも、ある事をきっかけに、あれだけ捕らわれていた『恐怖』から文字通り一瞬で脱け出したのだ。

『恐怖』を抜け出すあることとは、“達成”だ。

それっぽく“達成”と書いたけど、単純にそのアトラクションをやり終えたという事だけだ。それだけが、子どもを『恐怖』から解き放つ事ができた唯一の方法だったのだ。親である俺がどれだけの声かけや態度で接して関わっても、あの短時間で恐怖から解放させる事はできなかった。
もっと言えば、そもそもれだけの『恐怖』を感じつつも、そのアトラクションに入ると決めたのは子ども自身の『好奇心』だけであって、それも“止めるかどうか”の選択肢は本人だけにしか行使する事ができないのだ。
親子の関係性ですらこうなのだ。幾ら実の親であっても、年端もいかない子どもが感じる『恐怖』すら取り除いてあげる事はできないのだ。「過去と他人は変えられない」とは良く言ったものだ。親ですら他人なのだ。『好奇心』も『恐怖』も抑制してあげる事すらできない。親子間でもこうなんだから、アカの他人との関係性ではこれ以上だろう。つまり、自分自身以外の誰かが沸き上がった感情をコントロールする事なんて不可能なのだ。理解していた事が、あらためて身近で実感できたのだ。

俺にできるのは、『好奇心』だろうが『恐怖』だろうがどんな感情であってもその感情を真正面から受け止めて、『行動』をサポートしてあげる事だけ。その『行動』の結果、本人が何を受けとるのか。それは、その行動が終わった後に、本人が何を手に入れたのかを知ることでしか分かりようがないし、それはその本人には気付くことが難しいのだ。

アトラクションを終えた瞬間から子どもがこんな事を言っていた。

「あー楽しかった!もう1回行こうよ!ぜちょっとしか怖くなかったからまたやりたいね」

きっとこういう時こそ、あの台詞を使う時なんだろう。やれやれだぜ。