シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

想いが時間も場所も力も全てを超えていくのだ

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今日は、『映画ドラえもん のび太の月面探査記』を観てきた。

 

劇場でドラえもんを観るのはこれで2回目。

大人になってからというよりは、人生で2回目だ。

 

「子どもを映画に連れていく」

そんな、大人としての大義名分のようなモノはありつつも、実際には子ども以上に俺が楽しみにしているのだ。

 

映画を映画館に観に行くというのは、子どもの頃の俺にとっては非現実的な出来事だった。

その頃から、ドラえもんはもちろん、様々な興味のあるモノが映画館で上映されていた。そんな広告を、テレビや漫画雑誌で頻繁に目にしていた。はずだ。

はずだ、というのは、俺にとってはあまりにも現実からはかけ離れている出来事だったからだ。

 

住んでいた場所は、関東某県の新興住宅地。そこは、文字通り新興過ぎて商業施設は日常生活を送れる程度のモノを買いそろえる程度しかできないような個人商店の集合体のようなモノがあるだけで、デパートも無ければ、ボウリング場などの遊戯施設も無ければ、もちろん映画館も無かった。それらを利用したければ、住んでいる場所から電車に数十分乗って出かけるしか方法が無かったのだ。当然、子どもだけで行けるはずも無く、そもそも電車に乗る為の駅に行くまでにも子どもからしたら既に大冒険レベルの移動が必要な程の立地だった。つまり、親に連れて行ってもらえるように懇願するところから始まり、そして、そんな懇願は確実に却下されるという事が、明らかに分かっている状態だったのだ。それがどの位の確実性を持っているかと言えば、「コーラを飲んだらゲップが出る位確実」だとジョセフ・ジョースターが言い切る程度には確実性があったのだ。

だから、「映画を観に行きたい」という事を言いだす事は無く、そもそもそんな大それた願望を心の底から抱く事すら無かったはずなのだ。

ただ、「観たいなあ」とは思っていたので、ドラえもんの映画がテレビで放送される時には可能な限り楽しみに観ていた記憶がある。もちろん、映画の封切に合わせてコロコロコミックで連載していたドラえもんの映画版原作もとても楽しみにして読んでいたのをハッキリ覚えている。

 

あれから30年以上経って、昨年の『映画ドラえもん のび太の宝島』を観に行った。

ウチの子どもはその時が人生で初の“映画鑑賞in映画館”だった。

そして、俺も人生で初の“ドラえもん映画鑑賞in映画館”だった。

 

この時の体験は俺の中に強烈に残っている。

だから、これからも可能な限り、ドラえもんの映画は公開中に映画館で観ようと思っている。例え、ウチの子どもが成長して俺と一緒に映画を観に行かなくなっても。

 

映画を観るうえで大事な事ってたくさんあるんだと思う。

その映画を観る事に対するモチベーションは大事。ストーリーも大事。キャラクターも大事。声優や俳優も大事。音楽も大事。脚本も大事。監督も大事。カットも大事。スタッフも大事。観る場所も大事。一緒に観る人も大事。

映画を観るうえで大事なモノはたくさんあるし、何を大事にするのかは人それぞれなんだと思う。

 

だけど、どんな人であっても、その映画を観る時に自分が置かれている状況によって受け取るモノが全く変わってくるはずだ。過去からその瞬間に至るまでの人生を通して、今の状況が出来上がっていて、その瞬間に出会ったその映画の持つ何らかの要素が、何らかの影響を与え、その人の頭の中と心の中と身体の中に何らかの変化を起こさせる。それは、その人自身では意図して起こす事のできない変化だ。絶対にそれは意図して起こす事はできない。だからこそ、それにはその人にとってだけの大きな意味がある。

だから、映画というモノが産業として存在し続けるし、あれだけの多様で多彩な人達が情熱を注ぎ続けて新しい物を生み出し続けているんじゃないだろうか。きっと、そういう事なんじゃないんだろうか。今回のドラえもん映画鑑賞を通じて、そんな事を思った。

 

 

 

だからというわけじゃないけれど、

映画鑑賞後に劇場の売店で『異説クラブメンバーズバッジ』を購入してしまった俺にとっては、この買い物は決して無駄使いをしたわけでは無かったのだ。そんな事を、自分に対して改めて言い聞かせておくという意味も込めてここに記載しておこう。

 

意味は、あった。大きな意味が。

そのはずだ。