シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

今ここを生きる東方の若者達


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17年ぶりに何かをやるってどういう気分なんだろう?

今日は、日比谷野外音楽堂で開催されるeastern youthのライブに参戦してきた。17年ぶりの開催との事だ。

今から17年前だと西暦では2002年。俺は20代半ば。もう既にイースタンのファンではあったはずだ。ただ、野音のライブには参戦していない。その当時開催されたという記憶が俺には無いので、恐らくライブに行くつもりがなかったのだろう。どうして行くつもりが無かったのかは、心当たりはある。その当時は、お金が無かったのだ。

もちろん、今も、お金は無い。ただ、お金の無いレベルが今とは段違いだったのだ。何しろ、日々の生活をやりくりするだけでカツカツなのだ。非正規雇用で生計を立てていた一人暮らしなので他に頼る人は誰もいない。収入は少なく、そのうえ貯金は0だし、月末には財布がいつも底をつくのだ。何をどうしたってお金が残らない。格闘技をメインに考えて生活をしていたので、栄養バランスを考えて、食事はもちろんほぼ自炊で切り詰めの局地だ。そんな状態だったので、 大好きなイースタンのライブは行きたいけど行けないので、ライブ情報をチェックすることはしていなかったはずなのだ。だから、前回の野音ライブを俺は知らない。

そんな俺が、17年ぶりの野音ライブに行ってきた。ライブハウスじゃない場所で聞くイースタンはまた格別だった。ちなみに、MCで吉野さんから喋るように促されたタモさんが、「17年前の思い出は無い」と言っていたけど、前回を知らない俺には少し嬉しいコメントでもあり、反面、17年前の思い出を聞いてみたい気持ちもあった。

ライブはとにかく最高だった。我ながら語彙が少ないので言語化をする努力をもっとした方が自分のためになるんだろうとはとは思いつつ、今日のライブの感想を語るとしたら、これ以上の言葉を俺は持ち合わせていないのだ。

あの場にいた人ならきっと「最高」の一言だけでわかってくれるだろうし、仮にわかってもらえないとしても、あの場で俺が感じたモノは俺だけのモノなので誰に分かってもらえなくても何の問題も無いのだ。俺だけが受け取った俺だけの最高の感情と感覚。こういうのをこれからもずっと持ち続けて、俺の中の何かにしていくのだ。何かと言うのは、多分、俺の中の芯みたいな部分に何らかの影響を与えるモノなんじゃないかなと思ってる。何しろ、eastern youth を聞いても何の感慨ももたない人ももちろんいるんだろう。だとすると、その人とは少なくとも音楽という部分では分かりあえる事は無いんだろうし、音楽を聞いてどんな感情を持つのかという部分もきっと分かりあえる事はないんだろう。だとすると、そういう人達と音楽の話をしても、あまり楽しくなることは無いんじゃないのかなと思うのだ。だから、俺が好きな音楽は俺だけが一人で楽しめば良いのかなと思っている。

そんな風に音楽を楽しむ俺が、ライブに一人で行って一人で楽しんできた。そんな楽しみかたも大いに受け入れられるあの空間は最高だった。何しろ、吉野さんが「集団の熱狂なんていらない」的な事をMCで言うのだ。少なくとも俺がライブに行くといつも聞いている気がするので、多分、いつも言っているんだろう。全て、個対個なのだ。集団で同じアクションをすることはない。そんなものは良しとされない空間なのだ。誰にも、楽しみかたを強制されない。思い起こせば、あのバンドは昔からずっとそうだった。観客のダイブも、演者が禁止するのだ。きっとあれも、個の楽しみかたを許容する理念の表れだったのだ。暴れたいヤツがいても良い。だけど、自分が暴れたいという欲求を人に強要するんじゃない。暴れたくない、静かに楽しみたい、そういう人の楽しみたい気持ちだって尊重されるべきだ。きっとそういうことだったのだ。ダイバーシティ&インクルージョンが、ライブの現場で昔からずっと実践されていたのがeastern youthなのだ。だからきっと、俺はずっと変わらず好きなんだろう。

「みんな!盛り上がって行こうぜ!」なんて決して言わない。盛り上がろうと盛り上がらなかろうと、ただ、楽器をぶっぱなして、叫ぶ。それがあの人達のやりたいことでやるべきこと。それを聞くためにチケットを買ってその場に行って各々の楽しみかたで楽しむ。それが観客のすること。ただそれだけ。見た目が盛りたさ上がっていようと盛り上がっていなかろうと、跳び跳ねてようが跳び跳ねてなかろうが、声出してようが出してなかろうが、んなこたぁどーだっていーんだよ!あの場にいたそれぞれの人達とeastern youthというバンドが織り成す個対個の世界が、あの場にいた人数分織り上げられて生まれたあの空間の空気感。あれこそが俺の求めるライブ感なのかもしれない。

17年前のことなんて覚えてない。いま、この瞬間の事、今、この瞬間の、生きてる。その感じ。

大事なのは、ただそれだけなのかもしれない。今、ここ。

ああ、音楽もやっぱり哲学だったのか。そんな事を考えている野音帰りの電車の中。

そうあるべきだからそうあるべきなのだ


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ナチュラルボーン・チャレンジャー。

今日、生まれた造語だ。

生まれつきの挑戦者。そう形容するしかないほどの挑戦に溢れた生き方をしている人達がこの世界にはたくさんいる事に、今日気付いたのだ。

挑戦者と言いつつも、当の本人達は挑戦しているつもりは1㎜も無いであろう事は間違いない。なぜなら本人達は、ただやりたいことをやりたいようにやっているだけなのだから。

その行動は、はたから見るとその多くが、理由や目的が分からず、迷惑に映る事が多々あるだろう。その行動の結果、後始末に追われる人達もたくさんいるのかもしれない。

でも、彼等の行動の結果、多くの人達にたくさんの恩恵があった事は歴史が証明しているのだ。例えば、現在では当たり前に食べられている動植物の数々も、初めて食べた人がいるからこそ、その安全性やその美味しさが皆の共有財産として現代に語り継がれているのは誰がどうみても明らかだ。

その、人類にとっての初めてを切り開くのはいつの時代も、ナチュラルボーン・チャレンジャーだったはずなのだ。

彼らを突き動かすのは、誰の承認も必要としない本人の中だけに溢れる興味や好奇心だけなのだ。彼らが、つい、取ってしまう行動の中にだけ、その挑戦が溢れているのだ。

そんな、生まれながらに挑戦者であら人達の行動を、本当の挑戦として拾っていきたい。拾って、世の中に提示していきたい。

そんな事を、今日、強く思ったのだ。

生まれながらにして挑戦者である人達の、誰にも知られることの無い挑戦を、本当の挑戦としてこの世界に届ける。これが、やらなければいけない事なんじゃないか。そんな事を考えたので、もうやるしかない。近いうちに必ず。

色々あるけど、まずはたくさん寝てから考えよう


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体調があまり良くない時は、頭の中もパッとしない。

何か悪いものでも口にしたかの如く、昨日の夜中からずっとお腹が痛い。それが原因なんだろう、気分もあまり優れない。何かを考えようとしてもあまり考えも進まないし、本を読んでも集中が続かない。

「なんかパッとしねーなー」なんて自分に対して思いながらも、どうしてよいのかもよくわからない。ただただ気分がのらないし、何をするにも前のめりになれないのだ。

こういう時は、どうすればよいのか何となく分かっている。こういう時に、無理してなんとかしようとしても何もかもうまくいかないのはもう分かっているので、こういう時はその流れに逆らわずに、パッとしないまま過ごすのが結局一番ダメージが少なくて済むのだ。これは、今までの経験からよく分かっている。

パッとしない時は、パッとしない人間として、パッとしない生活をして、パッとしない時間を過ごす。そうすると、やること無いのでたくさん寝れるし、体力ご回復してきて、そのうち気分も良くなってくるのだ。

気分が乗らないときは、大抵はフィジカルに問題があるときなのだ。フィジカルが整えば、メンタルもそれなりについてくる。これが生物としての基本だろう。

たくさん寝る。
腹八分目。
ルーチンは崩さない。

これで、近々整うだろう。

それまでは、ろくに頭も働かないんだからおとなしくしていよう。

アイムソーテーGUY


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もう闘えなくなったのかもしれない。

そんな絶望感にうちひしがれた。今日の仕事での事だ。

俺の強みはライブでこそ発揮される。自分ではそう認識していたのだ。自分にできる事と言えば、何が起きるかわからない時と場所でも適切な振る舞いができること。それこそが、俺の役割りであり、俺がいる理由だ。そう考えていたのだ。

何が起きるかわからないのに、適切な振る舞いをする。一見するとおかしな事を言っているようだけど、これは生き延びていく時には絶対に必要な能力だ。それは今までの人生のなかで数々のピンチに遭遇してきたからこそようわかっている。だからこそ磨かれて身に付けてきた、いや、身に付ける他無かったと言える能力なのだ。そのつもりだった。

でも、今日、これが上手く発揮できなかったのだ。

予想される事の中で上手く動くというのは、はっきり言ってできなければ話にならない。もちろん、生存が自分以外の誰かの力によって保証されている状態であれば、予想される事の中で上手く動けなくても問題は無いのだ。だって誰かが守ってくれる前提なのだから。言うなれば、赤ちゃんとか子どもみたいなもんだから。でも、自力で生きていかなければいけないヤツは、予想される中ではもちろん、予想できない状況の中でも上手く動けないといけないのた。言うなれば、余白の使いかたが上手くなければいけないのだ。

ただ、狙ったモノは生み出せた。これは間違いなくできたのだから、及第点と言えば言えるのかもしれないけど、そこを狙っているんであれば正直なところ、そこに居るのが俺である必要性は無いんだろう。つまり、狙うところはそれではいけないという事だ。

志は高く。届きそうもないと思えるところに置いて、必ず届かせる。そんくらいの事ができなきゃ、俺がここにいる意味が無い。

あばよ風の残像


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あいつ今頃なにしてるんだろう?

そんな事を、久々に考えた。

打ち合わせで色んな話をしているときに何かのきっかけで、高校時代の同級生の事を思い出した。その事を思い出した会話の流れは覚えていないけど、昔の事を思い出してその思い出について話をした。

話し出してみると、もう何年も思い出したことのなかった話がどんどん出てくるのだ。あれから25年以上は経っていて、所々は全く記憶にないけれども、それ以外の部分は、まるで昨日の事のように鮮明に思い出せるのだ。話をしているときに頭の中に浮かぶ同級生達の姿はもちろんあの時のままで思い浮かぶ。まあこれは、当たり前だ。あれから一度も会っていないヤツラもいるんだから、今の年齢の姿は思い浮かぶわけもない。

そんな同級生達との思い出の日々も、俺にとっては特に大切な美しさがあるわけではない。ただ、思い出すことのなかった懐かしくも暗黒の日々の中で、ほんの少しだけ楽しかったじかんの記憶として残っているだけのものだ。ただ、今思えば、暗黒の日々にしていたのは俺の中の感情のせいで、周りの同級生達は結構面白くてイイヤツばかりだったなあと今になってあらためて思うのだ。とは言え、俺がそういうどうしようもなくツマランヤツたったばっかりに、今となっては誰とも連絡もとっていないし、皆がどこで何をやっているのかも知らないし、もちろん誰からも連絡はこない。それについて何かを思うことも無いけど、一つ思うのは、あの頃の俺はただただツマラナイヤツだったなあということだけだ。

そんな反省とも後悔とも懐かしさともつかないような何とも言えない感情を味わいつつ、とは言えあの頃の自分には他にどうしようも無かったんだから仕方ないよなあ、なんて昔の自分に同情しつつ。

今の俺だったら、あの頃の自分に一体どんな言葉をかけたりするのかなあなんて事も少しだけ考えたりしたのだ。ああ、そういえばあの頃の父親は、今の俺と同じくらいの年齢だったんだよなあと思うと、当時の父親の言葉をきちんと受け止められていなかった当時の俺には、どんな言葉も届かないのかもしれないよなあと思う。だとすると、言葉が響かない息子に対してどんな事を考えていたんだろうなあ、なんて事を同じくらいの年齢の男として考えてみたりもするけれど、もういない人には確認のしようがないので、いつもの如く想像して推測するくらいしか出来ないのだ。

この世界のどこかにいるであろう同級生達に対してと同じように、もうどこにもいない人達に対しても同じような事を思う時はある。

あの人は、今頃なにしてるんだろう?

異世界に繋がる扉を開いたら


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スマホゲームとは何ぞや?

そんな状態の俺が、昔を懐かしむ気持ちをきっかけに、先日サービスが始まった『ドラクエウォーク』をインストールしてみた。ゲームの内容は、ドラクエの世界観がそのまま自分が普段生活している地図上で繰り広げられる。とりあえず設定した目的地まで、現実の世界でも移動する事でゲームが進む。つまり、家に引きこもりっぱなしではゲームは一向に進まないので、物理的に移動しないといけないのだ。そのなかで、様々なゲーム内ゲームが用意されていて、コレクター魂を刺激されたり、カスタマイズによるオリジナリティへの働きかけがされていたりと、プレイヤーを飽きさせないようなデザインがそこかしこにされている。そんな感じだ。

とりあえず、今朝起きた時にこのゲームをインストールしてみた。今日は、そんなに遠くない場所を何ヵ所か移動する予定があったからだ。もちろん、ドラクエが好きだったというのが一番の理由ではある。そして、もう一つの理由が、なんか少しでも楽しくて色んな事を忘れられるようなモノは無いかなあと思ったからだ。

やってみての感想は、「面白い」だ。これは、ドラクエが好きだったというのが一番大きいだろう。あのゲームの世界観はそれだけでもう面白いと感じるようになっているのだ。ただ、面白いけど、ハマってやり続けるか?と聞かれたら、多分「あまり続けない」と答えるはずだ。

ドラクエウォークをやった俺の感想は、「やってみたいという欲が満たされたのでもう充分」が今のところの正直な感想だ。ゲームはゲームの世界であってほしい。テレビ画面の前で“だけ”俺を異世界にトリップさせてほしいのだ。現実と絡んでこられても、現実の方が圧倒的にスリリングだし面白いのだから、ちょっとどちらにも入り込めなくなっちゃうんだよなあ。

俺にとっての異世界への入口は、いつだって、テレビの画面であってほしい秘密の。儀式に必要な、秘密道具的な位置付けなのかもしれない。それが整ってこその異世界へのトリップだと考えてるんだろうなきっと。

 

いつか開けられる日が来るのかな?


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久々に分厚い本を読み終えた。

一冊400ページの専門書。どうしても早くこの本を読みたくて、金曜日から読み始め、ようやく日曜日の夕方に読み終えた。これだけのページ数の本をこの日数で読んだのは久しぶりだ。

内容は仕事に必要なジャンルの専門書。読み始めるまでは、「仕事に必要だろうけど、内容が難しかったら俺読めないかも」そんな事を考えていた。
何しろ俺は勉強が嫌いだ。教科書のような本は読めない。どれだけ興味を持ってても、なけなしのお金を出して自腹で買った本だとしても、小難しい本だとすぐに寝てしまうのだ。寝不足じゃなくても。
そんな調子なので、読んでみてダメだったら諦めようと思っていた。

だけど、本を開いてすぐに書いてある冒頭の『はじめに』を読んでいるときに異変が起きた。

心臓がドキドキしてきたのだ。本を開いて、本編に入るよりずっと前の導入部、それもほんの出だしを読んでいるだけで、心臓の鼓動が速くなってきて腹の底から何かが込み上げてきたのだ。こんな体験、映画では何度か味わったことがあったけど、読書で体験したのは生まれて初めての事だった。心臓はドキドキするし、体も若干震えていた記憶がある。その証拠に、ページをめくる手が震えていた映像をハッキリと覚えている。

そうして読み進めた本は、久々に頭の中がスパークしまくるような読書体験だった。本当に良い時間を体験できたし、物凄くためになる内容だったし、これから先の自分達に繋がるモノを確実に手にできた感覚がある。それが何かはまだ言葉にできないけど、でも、間違いなくこの先に続いていくモノを得た。そんな読書体験だった。

もしかしたら、世の中の読書家という人達は今回俺がしたような体験をたくさんしている人達なんだろうか?だとすると、今まで俺がしてきた読書ってやつはイッタイなんだったんだろうか?そんな事を考えてしまうくらいの衝撃的な感覚を体験できた。

そう言えば、以前、何かの本で内田樹氏が書いていた事を思い出した。一言一句は覚えていないけど、確か、「前書きを読んだ時に、自分に語りかけてきているかのように感じたらその本は読むべし」的な内容だった。それ以来、どんな本も手に取ったらまずは、前書きを読むようにしている。そこで、読むかどうか(大抵は、買うかどうかも含んで)判断するようにしていた。で、大体はそれでハズレないけど、2~3割はそれでも眠くなることがある。「まあ、仕方ないかなあ」なんて思っていたけど、違ったんだ。多分、内田樹氏が言っていたのは今回のようなケースを指していたんじゃないだろうか?もしそうだとすると、読んでいて眠くて先に進まないなんて事は起きるはずないし、そんな本を読んだとたら、それは必ずその先の人生でどういう風にしろ必ず生きてくるはずだ。

これまでに散々してきた読書でさえ、こんな初めての体験が待っているのだ。だとしたら、他の事でも、例えば自分がなかなか上手く出来ない事やまだ経験の無い事だけじゃなく、出来て当たり前だと捉えている事の中にも当然まだまだ知らない事や知らない領域があるはずなのだ。

俺の知っている世界の狭さと、俺の知っているこの世界の無限の広さ。そのどちらについても認識を書き換えることができた、素晴らしくワンダーな体験だった。

探究心。

忘れてはいなかったのかもしれないけど、忘れちゃいけないヤツを明確に思い出した。