シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

子どもの遊びを甘く見るな


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イメージって時にはとても恐ろしい。

今日は子どもと、家から少し離れた公園に来た。この公園は、ちょっとした山の中に作られた比較的新しい公園で、とても広くてキレイで楽しい遊具もたくさんあって、以前からよく来ているんだけど、公園の中に遊歩道的なコースが設置されている。ただ、自然の中を歩くコースらしく、虫や動物が出るから注意を促す看板がある。それが嫌なので今までは行かなかった。ただ、今回は、子どもがリクエストをしてきたのだ。「探検コース楽しいから行こう」と。今朝は起きてから下半身のあらゆる筋肉がとても痛い。一昨日のトレーニングの影響だ。歩くだけでも苦痛だし、階段なんてツラいことこのうえない。だから俺は探検コースはあまり乗り気じゃなかった。でも、保育園で時々このコースに来るらしい。ということは、子どもが歩けるコースなんだからそんなに長くもないだろうし、ツラくもないだろう。そんな風に考えると、筋肉痛の身でも、初めて歩く道を楽しめるんじゃないかと思って一緒に探検に行くことにした。

道の入り口には、金網製の扉が設置されている。大人の背の高さに設定されたカギがついているので、子どもだけで入るのを防ぐためなんだろう。「ずいぶん仰々しいなあ」なんて思いながら入っていった。入り口には、遊歩道マップと杖代わりに使える棒が置いてあった。自然のなかを歩くにはまあまあ気分が出るかもねなんて思いながら杖を手に取る。さあいよいよ探検開始だ。

歩き始めるといきなり登り道だ。早速杖が役に立つ。まあこれくらいなら子どもでも歩けるよなあ。周りを見ながら歩く。まさに小春日よりの今日、暑くもなく寒くもなく、とても良い感じで自然のなかを散策。なんて清清しい気分なんだろう。開始数分でこの充実感。「いやー、来てみて良かった」なんて思いつつ調子よく歩を進める。すると、段々と傾斜がキツくなる。階段はあるけど、一段一段の段差がデカイ。しかも、長い登りだ。終わったと思ったらまた登り。そして今度は急激な下り。道以外の周囲の景色は完全なる、山の中だ。もう戻るのも大変だ。こうなったら前に進むしかない。なんだかんだ言っても、保育園児が歩けるコースなんだから。

それから数分も経たずに、子どもに大きく遅れをとる40代のおっさんが一人、杖をついて歩く。呼吸は既に乱れている。というか、息が上がっている。筋肉痛だった下半身は脚を一歩進める度に激痛が走る。とにかく階段の登り降りが激しいのだ。一体全体こんな道をどうやって保育園児たちがみんなで歩くのだろう。俺にはどう考えても、修験者の修業にしか感じられない。苦行だよこれは。

そんな事が頭の中をグルグルしながら、「いつまでこれが続くんだ…」と半ば絶望しながら、かれこれ40分は歩いただろうか。ようやく終わりが見えてきた。既に、来ていたTシャツは汗でビショビショになり、脚は乳酸が溜まりまくり、呼吸は荒い。かたや、保育園児はただ楽しかったようで、その後、一目散に公園の遊具に向かって走っていった。

子どもの遊びの方はレベルが高い。めちゃくちゃにキツイ事も、あっさりとやってしまうのだ。片や、普段からトレーニングしているから大抵の事は大丈夫だと、自分で自分を過信していたおっさんはこの有り様だ。思い込みやイメージは、こんなにも現実との乖離がある。特に、自己評価ほどあてにならないものは無い。

レーニングと山歩きは何の相関も無いのかもしれない。いわゆる『体力』とか『スタミナ』ってやつは、それ用の鍛練が必要なんだろう。自分の評価は正しく行わないと、適正の無い事も「できる」って思ってしまうんだなあ。本当に気を付けよう。

もう一歩も動けないと思える日常の風景


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一体、今までの時間は何だったんだろう?

昨日の脚トレーニングをやりながら、そして、その翌日に感じている事だ。

これまでも、脚のトレーニングは「とにかくキツイ」と思っていた。とにかくキツイから、いつもいつも、「やりたくない」と思っていたのだ。それなのに、新しいセットの組み方に変えてトレーニングを実施してみたところ、今までやっていたトレーニングなんて到底比べ物にならない程のキツさだった。具体的にどうキツカッタかと言えば、1セット終わるごとに酸欠状態に陥いったり、1種目終えると吐き気が襲ってきてきたり、翌日には脚のダメージでおかしな歩き方になったり、全身へのダメージがでかくて眠気が凄かったり。簡単に挙げるだけでもこれくらいの違いがある。こうなってくると、今までも脚のトレーニングはやっていたのにどうなっているんだろうと考え込まずにはいられないのだ。これじゃあまるで、何年も一切のトレーニングをしていない状態で急にトレーニングをした後に出る症状じゃないか。それくらい、今までやっていたトレーニングとの差があるってことなのか。

まあでも、モノは考えようかもしれない。これだけキツイと言うことは、それだけ体に変化が起きるということかもしれない。と言うか、すでに起きているからこそのこのダメージなんだろう。これからの体の変化が今から楽しみでならない。

でも、このキツさがこれからずっと続くのかと思うと、それは本当に憂鬱になるなあとも、もちろん思っている。どうやって気持ちを上げてジムに向かうかがこれから重要になってくるなあ。

まるで仙豆を食べたかのような超回復


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回復力には自信があります。

体の話では無い。精神面の話だ。

自分で言うのも何だけど、俺は一般的に見てもとても繊細な部類の人間だと思う。神経が細いとか、気弱だとか、小心者だとか、臆病だなんて表現の方が近いような気もしているけど、それくらい繊細なのだ。だから何かをやってしまったと思ったときには、それ相応のダメージを被るのがいつもの事だ。もちろん、そうならないように様々な防衛策を考えて、常に最悪の事を考えて、できるだけリスクを予見しようとする取り組みについては、一般的に見てもかなりのハイレベルだと自覚している。だからこそ、起こしてしまったやらかしについての精神的ダメージが大きい。

だけど、そこからの回復が速いのだ。大抵の出来事については、事が起きてショックを受けた次の瞬間には、どうやってリカバリーしていくのかを考え始めているのだ。このスピードも一般的に見てかなり速いと自覚している。ただ、そんな俺でも時間がかかる事があるのだ。それが、昨日のような自分の中の闇に繋がるような事だ。そうなるともう未知の世界だ。でも、そこにはある法則が潜んでいるんじゃないのかなと今は考えているのだ。それは、自分自身のダメさを見ないように見ないようにして無意識で避けているからこそ起きているのではないかという事だ。

自分自身のダメさを見ないようにする事で、現実を真正面から受け止めず、その逃げているという事実からも逃げようとした結果、「自分なんてダメなんだ」とか言って落ち込むことで思考放棄しようとしてしまうのが原因なはずなのだ。なので、そもそものスタート地点に戻って、自分の至らなさを真正面から見つめて、受け止めて、如何にどうしようもない事柄だったのかを客観的事実として把握し、それを持ち前のリスク対策を考える力で考えて、対策を練り、それをどうやって実行するのかを考える。これを、一般的に見てかなり速いという対処スピードで自分の中で瞬時に行うのだ。

こらによって、はたから見ると「落ち込んでいたのは何だったんだ?」と誰もが思うようなスピードで回復しているのだ。だけど、当事者の俺からすると、この時の体感スピードはめちゃくちゃに長いし、体感しているのは物凄く粘性の高い空気の中でもがいているような感覚なのだ。そうして、もがくなかでようやく身動きが取れるようになってきて、そして、抜け出す。そんな感覚なのだ。

だから、俺の中には長時間の苦しみを何度も経験している実感があるのに、他者から見た俺は、落ち込んでもすぐ回復して何事も無かったかのように振る舞うヤバイヤツとして認識されているのかもしれない。

声を大にして言いたい。

俺はヤバくない。
ただ、人より繊細で、人より回復が速いだけなのだ。だから、どうぞいたわりの心で接して下さい。

ルサンチマンではないのかもしれないけど確実にここにおんねんぞ


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上がって落ちて上がって落ちての繰り返し。

もちろん、俺の感情の話だ。

「まるで感情のジェットコースターや!」彦摩呂じゃなくても思わずそう言いたくなるであろう程に俺の最近の感情の触れ幅がデカイ。あまりのデカさに、自分自身でビックリしている。
上がった時には、それはもうビックリするくらいにどこまででも行ける気がするし、落ちた時には、もう何がどうあっても無理なんじゃないだろうかとしか思えなくなってしまって身動きが取れなくなる。書いていてもあらためて情緒不安定なんだなあと冷静に考えてしまう程度には安定していない精神の持ち主だ。
そんなやわな精神の持ち主である俺が、ここ近年でも最大の精神的クレバスに落っこちたのがちょうど昨晩の事だ。「あーこれはもうダメかもわからんね」そんな事だけしか考えられなくなってしまった程にやわな精神であっても、何とかかんとか戻ってこれた。もちろん、自分一人の力で、自力で戻ってこれたわけではないのは言うまでもない。戻ってこれた理由はたったの一つ。

それは対話が行われたからだ。

今回は、「もうダメだ」と思って完全に思考停止状態に陥った俺に対して、外側から色んな言葉を投げ掛けてもらったけど、そのほとんどに反応ができなかった。今思い返しても何でそうだったのかは全くわからないけど、でも確かに反応できなかったのだ。だけど、たった一つ投げ掛けてもらった問いかけがきっかけだった。それが再起動のきっかけだった。その問いに対してあらためて考え直してみた。そうしたら、色々思い出してきたのだ。何で自分が今ここにいるのか。その理由を。仔細に、明瞭に、色や音やその時の気持ちを伴って、ハッキリと思い出したのだ。その大部分は、気持ちの良いポジティブな感情を伴うようなモノではなかった。むしろ、蔑まれたりバカにされたり見下されたり陥れられたり、そんな風にこれまでの人生で俺に対して散々向けてこられた他者によるネガティブな感情の大波だ。そして、それらによって見事なまでに立派に育まれてきた自分自身に対する強固な不信感と嫌悪感。そんなそもそもの、根本的な、大きな波。そういうこの世界への怨念があったからこその、この世界に対する怒り。それがそもそもの始まりだった事を、明確に思い出したのだ。

こうやって思い出してみて分かったのは、自分で自分を勘違いしていたという事だ。俺はヒーローでも無ければ正義の味方でも無い。そういう、ヒーローのようなモノになりたいと思っていたヤツだ。ヒーローになりたいと思うという事は、自分がヒーローでは無いという事を心底分かっていないと思えないはずなのだ。そして、そもそも、ヒーローになれないという事も心底分かっているはずなのだ。それがあっての、「ヒーローになりたい」願望なのだから。現実世界では、どこかの誰かから変身ベルトを渡されてその次の瞬間にポーズをとれば変身出来てヒーローのような力や立ち位置が手に入るなんてことはありはしない。だけど、ヒーローになりたいと思う自分は確実にいて、だからこそ、そんなもんになれるわけがないのも分かっている。そんなどうにもならない気持ちが分かったのだ。

俺はヒーローにはなれそうもない。何故なら、俺の中にある大本のエネルギー源は、この世界への怨念と激しい怒りだから。そんなヒーローはいない。そんなヤツはヒーローの資質が無い。そして、そういうものがエネルギー源だから、時々それに飲み込まれそうになる。昨晩の俺は、はたから見ていても完全に「闇に飲まれていた」らしいのだ。まだまだコントロールが効かないらしい。だけど、このエネルギー源は涸渇する事が無いだろう。何故なら、全ては俺の過去の体験から来ているものだからだ。怨念と激しい怒り。自分の過去に対するリベンジ。これを成し遂げるまでは、絶対に枯れない。それを成し遂げるために、会社を創って仕事を創った。全ては、復讐を果たすためだ。俺の復讐は、この世界から搾取や支配を無くす事で成し遂げられる。過去の自分を、自分の手で救い出してやることでしか遂げられない。誰にも、人を見下したりマウントを取ったり感情や財産や時間等の搾取をしたりバカにしたり貶めたりさせない世界にしてやるのだ。そんなアホらしくて糞みたいな所業で悦に入っていることが如何に情けなくて恥ずかしいのか、そんな事が当たり前の価値観になる世界に変えてやる。それしか、俺の怨念を昇華して、怒りの炎を消し去り、復讐を果たす事はできないのだ。

これからも、上がったり落ちたりを繰り返すのかもしれないけど、あらためて、何のために今ここにいるのかを常に忘れずに自問自答し続けていく事が、これから先も前のめりに進んでいく唯一の方法だと自分に言い聞かせるために書いておくのだ。

休むための口実探し


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二日ぶりにジムに行った。

風邪で休んでいたのでジムに来れなかった。まあ、インフルエンザや肺炎じゃなくて良かったなあというのが正直なところだけど、本当にジムに来れるような症状であるただの風邪で良かった。とは言え、風邪も風邪で厄介ではある。とにかく喉が痛いのだ。朝起きると、必ず痰が出る。それも、まっ茶色で固めのやつだ。そして、喉が痛む。だから、しっかりうがいもするし、もちろん薬も飲む。だけど、なかなか症状は治まらない。医者からはしばらく薬を飲むようにとは言われているけど、早く直したい気持ちが先行して、薬を飲みながらもジムに行ってトレーニングをしてしまう始末だ。でも、まあまあそれなりのトレーニングが出来たので満足はしている。病み上がりだから、もう少ししようもない内容で落ち着くのかなと思っていたけど、そうでもなかったので良かったなあというところだ。

病み上がりはいつもあんまり調子が上がらないのだ。大抵は、平常時の8割り程度が病み上がりのアベレージだけど、今回は期間も短めで、案外大したことがなかったのもあり、早目の対応が出来たのが功を奏したのかもしれない。とにかく、良かった。

風邪をひくと、良かったものも悪くなり、良くなかったものが悪かったことになる。とかく、この世は生きづらいのである。

さあさあようやくやって参りました


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夜中に目が覚めて眠れなくなった。

仕事では朝から、今後の見通しについて皆で話をした。俺はどうやら論理的ではないらしい。知ってはいたけど、感情が先走って、聞いている人に話を伝えるのが下手みたいだ。これはもちろん今後の改善が必要だ。伝えたいことが、自分のせいで伝わらないのは非常にもどかしい。それほど感情が高まっていないときなら概ね伝える事ができるのに、本当に伝えたいほど熱量が混もってきている時には全然だめだ。指示代名詞ばかりが口から飛び交い、英語に訳したら、「This is That!」を繰り返しているだけだと指摘を受けるのだ。これはさすがに何とかしないとまずいだろう。自分でもあらためて反省する程の言語化力の無さだ。

ただ、色んな力が足りなくても伝えないといけない事もあるのだから、そう思ってめげずに話をしていると、今まで考えたことも無かったような考えに到り、最終的になんとか理解してもらえるくらいには言語化できたのだ。これを体験してみて、想いを言葉にしようと必死で考えることの重要さをあらためて実感したのだ。
どうやって話したら伝わるのか?どうやって表現したら伝わるのか?こういうのはどうだ?これなら伝わるか?こう言ってみたらどうなのか?そんな事を考えながら相手の反応を見て、角度を変えて、解説を足して、それでも足りなければ更に分析を進めて、また解説をして。そんな風に、粒度を細かくしていったり、括る場所や範囲を変えたりすることで、話ながら新しい考えに到る事も多々ある。それによって、と言うか、それくらいはしないと、俺の中の身体性を伴ったクオリアを共有する事は難しいのだ。でも、逆に言えば、このくらいの事をすれば伝わるんだという実感が増えてきたというのは、俺にとって、とても大きい事なのかもしれない。言うなれば、俺の中にも外界とのコネクターが出来上がりつつあるという事なんだろうから。

人の役割は人によって様々だ。俺には俺の、仲間には仲間の特性があって、それぞれに特化している部分がある。似ているところや被っている部分もあるけど、やっぱり最大限に活かされて発揮される能力はそれぞれ違うのだ。これが以前よりもどんどん明確になってきている。そこには、個々の能力が上がったというのもあるけど、そらよりも、それぞれが己の持ってるモノと持っていないモノに自覚的になってきたというのが大きいと感じている。それが故の選択と集中の結果なのかもしれない。
以前は皆が各々が思う「なんでもかんでもまず自分でやらないと」という感じだったのかもしれない。でも、自分が行くよりも、仲間に任せた方が圧倒的に高いパフォーマンスを発揮してくれるという信頼と言われているけれども、その実、己の力不足を認める事にもなっているその行為を、きちんと時勢を見極めて行うこと。それが段々とできるようになってきた感じかもしれない。もちろん、俺の中にも「俺が俺が」という気持ちはある。人よりは少ない自覚はあるけど、それが確実にあるのも自覚はしている。ただ、会社の全体最適を考えた時には、俺が俺にこだわるのは全く得策では無いという事だけは理解している。そこにこだわっても、俺の中にある「俺が俺が」という気持ちが満たされるだけで、現実には、世界がより良くなる機会を逸する事になる=悪くなるだけなのだから。

そう考えると、退くべきところは退く。これに限るのだ。

あ、でも、待てよ。

そうなると、俺の出番って、あるのだろうか?

 

そんな事を考えていたら、余計に眠れなくなってきた真夜中の寝床の中からお届けしました。

これでリセットできるかな?


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なんだか体がダルいと昼過ぎに感じ始めた。

ここ数日間ずっと喉が痛かったけど、今日はその中でも一番痛みを感じる。だけど、それ以外には自覚症状は無い。鼻水も咳も頭痛も無い。だから大丈夫だろうと思っていた。もちろん、免疫を下げないようには何となく気を付けようと思って、普段は時間の都合上あまり使わないジムのサウナも積極的に使っていた。それもあってか、昨日の土曜日までは喉が少しいたい以外には何にも自覚症状は無く、ジムも行っていたし支障は無かった。ところが、今日は起きてからなかなか体の動きが鈍かった。いつも通りに体が目覚めるのに時間がかかっていたりとか、昨日のトレーニングの疲れなのかなと思っていたけど、昼頃から明確にダルさを感じるようになってきた。「これはダメかもしれない」と思って、今日はジムに行くのを断念して早々にベッドに潜り込んだ。
目が覚めたら外は真っ暗で、昼過ぎから夜まで寝ていたようだ。喉の痛みは変わらないけど、少しだけ体が楽になった気がする。寝る前に食べたご飯のおかげか、それとも葛根湯のおかげなのかはわからないけど、寝る前よりも楽に感じるのはありがたい。何はさておきカロリーが必要だと思い、食べられそうなモノを口にする。そして、湯舟に浸かる。体温を上げて免疫を高めるためだ。実際にどうなのかはわからないけど、体温を上げることで免疫を高めることにつながる気がするからやってみる。そしてまた水分と栄養を補給する。風呂のおかげか、体調も少し戻ってきた感じがするので本を読む。なんとか休みの日のノルマの幾らかは取り戻せた。そして、また薬を飲んでこれから寝ようと思っている。もちろん、今日はジムに行っていない。

こういう風に体調を崩すと、昨日までの健康だった自分との乖離を強烈に意識することがある。しかも、そういう時は決まって、「今までせっかくトレーニング続けてきたのに」なんて思いがちになる。そうすると大体気分が落ち込むのだ。今まではいつもそうだった。だから明日にはジムに行けるようになんとか体調を取り戻したいけど、こればっかりは明日になってみないと分からない。だけど、これからはそんなことで一喜一憂するのはやめにしたい。そんな程度で効果がなくなるようなトレーニングはしていないし、体調が元通りになればまた一際ハードにやれるはずたから。

気分のコントロールを身に付けようと思う。それは涌き出る気持ちを押さえつけることじゃなくて、涌き出るものはそれとして、出てきたものをしっかり分析して上手に往なす事なんだろう。体調を崩したくて崩す人間はいない。だからそれは仕方ないことだ。仕方ないことについて、思い悩んでもそれこそ本当に仕方ないんだから、それはそれとして、よりよく前に進むためにどうしていくかってことだけだ。

そんなことを、寝床の中で今考えている。とは言え、全ては明日の朝起きてから考えることだ。今は寝るしかない。