シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

さあさあようやくやって参りました


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夜中に目が覚めて眠れなくなった。

仕事では朝から、今後の見通しについて皆で話をした。俺はどうやら論理的ではないらしい。知ってはいたけど、感情が先走って、聞いている人に話を伝えるのが下手みたいだ。これはもちろん今後の改善が必要だ。伝えたいことが、自分のせいで伝わらないのは非常にもどかしい。それほど感情が高まっていないときなら概ね伝える事ができるのに、本当に伝えたいほど熱量が混もってきている時には全然だめだ。指示代名詞ばかりが口から飛び交い、英語に訳したら、「This is That!」を繰り返しているだけだと指摘を受けるのだ。これはさすがに何とかしないとまずいだろう。自分でもあらためて反省する程の言語化力の無さだ。

ただ、色んな力が足りなくても伝えないといけない事もあるのだから、そう思ってめげずに話をしていると、今まで考えたことも無かったような考えに到り、最終的になんとか理解してもらえるくらいには言語化できたのだ。これを体験してみて、想いを言葉にしようと必死で考えることの重要さをあらためて実感したのだ。
どうやって話したら伝わるのか?どうやって表現したら伝わるのか?こういうのはどうだ?これなら伝わるか?こう言ってみたらどうなのか?そんな事を考えながら相手の反応を見て、角度を変えて、解説を足して、それでも足りなければ更に分析を進めて、また解説をして。そんな風に、粒度を細かくしていったり、括る場所や範囲を変えたりすることで、話ながら新しい考えに到る事も多々ある。それによって、と言うか、それくらいはしないと、俺の中の身体性を伴ったクオリアを共有する事は難しいのだ。でも、逆に言えば、このくらいの事をすれば伝わるんだという実感が増えてきたというのは、俺にとって、とても大きい事なのかもしれない。言うなれば、俺の中にも外界とのコネクターが出来上がりつつあるという事なんだろうから。

人の役割は人によって様々だ。俺には俺の、仲間には仲間の特性があって、それぞれに特化している部分がある。似ているところや被っている部分もあるけど、やっぱり最大限に活かされて発揮される能力はそれぞれ違うのだ。これが以前よりもどんどん明確になってきている。そこには、個々の能力が上がったというのもあるけど、そらよりも、それぞれが己の持ってるモノと持っていないモノに自覚的になってきたというのが大きいと感じている。それが故の選択と集中の結果なのかもしれない。
以前は皆が各々が思う「なんでもかんでもまず自分でやらないと」という感じだったのかもしれない。でも、自分が行くよりも、仲間に任せた方が圧倒的に高いパフォーマンスを発揮してくれるという信頼と言われているけれども、その実、己の力不足を認める事にもなっているその行為を、きちんと時勢を見極めて行うこと。それが段々とできるようになってきた感じかもしれない。もちろん、俺の中にも「俺が俺が」という気持ちはある。人よりは少ない自覚はあるけど、それが確実にあるのも自覚はしている。ただ、会社の全体最適を考えた時には、俺が俺にこだわるのは全く得策では無いという事だけは理解している。そこにこだわっても、俺の中にある「俺が俺が」という気持ちが満たされるだけで、現実には、世界がより良くなる機会を逸する事になる=悪くなるだけなのだから。

そう考えると、退くべきところは退く。これに限るのだ。

あ、でも、待てよ。

そうなると、俺の出番って、あるのだろうか?

 

そんな事を考えていたら、余計に眠れなくなってきた真夜中の寝床の中からお届けしました。