シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

呪禁の歌?コギトエルゴスム

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『考える』という事について考えた。

 

俺も含めて、誰でも『考える』という事をしている。
今日の今日まで、俺はそう考えていた。

でも、どうやら違ったらしい。


というのも、どうやら一部の人達は、俺が考える『考える』という行為とは全く別の事をしているようだ。


どういう事かと言うと、
俺の思う『考える』とは、Aという事柄を自分の中にインプットしたら、そのAについて自分なりに解釈を加え、時には分析したり、類推したり、比較したり、検証したり、といった事をした後にアウトプットをする。
流れとするとこんな感じ。
《インプット》⇒《解釈・分析・類推・比較・検証など》⇒《アウトプット》
それが俺の思う『考える』という行動(の一部分かもしれないけど)だ。

 

ところが、ウチの会社の若い子たち(若くない子も入っているけど)は、どうやらそうではないようだ。
というのも、最近、社内研修の一環として、彼らに様々なワークをやらせている。
事の発端は、彼らから上がってきたこんな一言からだ。
「仕事を通じてもっと成長したいんです」と。
そこから始まった、彼らへの社内研修のワークを通じて、上に書いたような恐るべき仮説が出てきたのだ。

 

では、彼らの『考える』という事は一体どう我々と違うのか。


彼らも彼らなりに、様々な場面でインプットを行う。Aという事柄を自分の中にインプットしたら、そのAをそのままにしておこうとしたり、Aを伝えようとして変形したり、Aを起点に何かを連想したりといった事をした後にアウトプットをする。
流れとするとこんな感じ。
《インプット》⇒《変形保存・伝言ゲーム・連想ゲーム》⇒《アウトプット》
これが彼らのしている『考える』という行動だ。

 

この事が、最近の社内研修をする事で見えてきた。
彼らの会話(というより『お喋り』と言った方が適切かもしれない)から見えてきた。
これまでは、完全に闇に閉ざされていた彼らの思考回路というブラックボックスの中身がようやくちょっとずつ見えてきた感じだ。
そう、彼らの中で行われていた『考える』という事は、恐ろしい事に、俺たちが考える『考える』とは全く別の何かの作業が行われていたのだ。


だから、「これまで教えてきた事が実践されない」とか「同じことを何回言っても通じない」とか「普通に考えたらわかるだろ」とか「どう考えるとそうなるの?」とか俺達にとっては不可解な事がしょっちゅう起きるのだ。

 

こんな事を書くと、「それはシオタが会社の若い子たちにちゃんと指導してないからじゃないの?」と思う方もいるかもしれないけど、そういう事ならどれだけ救われる事か。もっとも、このブログをこれまで読んでくれた事のある人だったらそんな事思わないかもしれないけど、これは、俺を含めた彼らの上司や先輩が仕事を教えていないとかわかるまで丁寧に接してないからだとかそういう話ではないという事を前提に読んでもらえるとありがたい。

 

そんな『考える』という事について考えた俺達には一体何ができるのか。
そして、『考える』という事を我々とは全く別の次元で捉えている人達は一体どんな世界観で生きているのか。


そんな事を、仲間と一緒に考えていたら、彼らのような若者たち(若者でない人達も多分に含む)にとって必要な事というか、彼らに関わる人達に必要な事といってもいいんだと思うけど、そういう人たちに必要なのは先人たちの叡智の結晶とも言える分野の学問である『哲学』が必要なんじゃないかなと最近思っている。
それこそ、『考える』という事をする為の学問であり、『考える』という事を通して考える方法や考える力を養う事に繋がるんじゃないかな。
何の実益にも繋がらないと言われている『哲学』こそが、実際の仕事の場で必要な『考える』という事に繋がっているんじゃないのかなと思う今日この頃。これが、急がば回れという事なのかな。

 

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