千日の稽古を鍛とす
『身に付ける』という言葉がある。
『身に着ける』と書くと、衣類を身にまとう意味になる。
例によって、ネットで意味を調べるとこんな風に出てくる。
(1)知識や技能などを自分の能力として供えること。
「教養を身に付ける」「礼儀作法を身に付ける」などのような言い方で
用いられることが多い。
(2)衣服や装飾品を身にまとうこと。
この意味においては「身に着ける」の表記も一般的に用いられる。
この(1)の意味で語られているはずの文脈で、(2)の意味を用いる人達がいる。嘘じゃない。信じられないかもしれないが、本当にいるのだ。
そう、自分が身に付けたモノを語る時に、まるで、自分が持っている衣服や装飾品を語るように。
(1)の意味であれば、「自分の能力として備える事」とあるので、一度手に入れてしまえば失う事が無いだけでなく、誰かに奪われる事のないはずのモノだ。
でも、彼らはちがう。
彼らが「身につけた」と言うモノはそのことごとくが、上書き可能なモノ、つまり「ただの情報」だ。
そう、「ついこの間まで知らなかった事を知った」というただそれだけの事を「身につけた」と捉えているのだ。そして、その情報を時々更新している。更新するたびに、「新しく身につけた」と感じる。まるで、流行りの洋服を次々と買い替えるかの如く。その様はまるでファストファッションを流行に合わせて買い替えていく今どきの若者のように。
だからこそ、彼らの「身につけた」は、「身に着けた」に他ならない。
着替えるのは自由にできるし、身に着けたモノはすぐに別の何かに代替可能だ。
だけど、本来の「身につけた」はやっぱり「身に付けた」なんじゃないかなと。
言葉通りのイメージで捉えるなら、「身に付ける」とは、まるで、筋肉をつけるかのように自分の「身」に「付ける」モノだ。
筋肉は、自分が鍛える事によってしか身に付かない。
どれだけ、「筋肉が欲しい」と願ったとしても鍛えなければ絶対に筋肉はつかない。
これは、間違いのない絶対と言える真理だ。
だからこそ、自分がイメージする筋肉を手に入れる為に、人は鍛える。
そうして鍛えて手に入れた筋肉は、自分だけの、己の肉体の為だけに動かす事のできる固有の能力として生かすことができる。
それでこそ、自分の能力として供える事に他ならない。
鍛えて、身に付け、身に付けた筋肉によって更なる重量で鍛え、より大きな筋肉を身に付ける。
これをただひたすら繰り返す。
そうして、手に入れた自分の鍛えられた肉体はもはや誰にも奪われることもなく、まさに自分の能力として供えており、更なる高みに進む為の推進力になる。
なんか、こんな感じが『身に付ける』って事なんじゃないのかなと。
俺にとっては至極当たり前の事だったけど、あらためて、別の解釈をする人達に出会ったので今日のブログに記しておこうと思った。
もっとも、その「別の解釈をする人達」というのは、このブログを連続して読んでくれている人がもしいるとしたら察しがつくと思うけれども、ご多分に漏れずウチの会社の若者たちの事なんだけど。
とても身軽に、身近な様々なモノを『身に着けた』と解釈し、実際には、能力として供えているかどうかは甚だ疑問な様子のモノ。
かたや、時間をかけて鍛錬を続けてようやく『身に付けた』自分の能力。
それが例え群を抜いたものじゃなかったとしても、それは己が備えている自分固有の能力であり、この能力を元に更に前進していく事もできるかもしれない。
『身につける』なら、どっちがいいですか?
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