シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

ただそこにある事柄に何を見出すのか

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くだらない事がたくさんある。

誰かが誰かに「いいかっこ」をしたいが為に、どこかの誰かに用事を押し付ける。

誰かが誰かに「叱られないようにする」為に、どこかの誰かに責任を委ねる。

誰かが誰かに「ほめられたい」が為に、どこかの誰かにこれみよがしに上から物を言う。

 

そんな、何の意味も感じられないような、くだらない事がたくさんある。

だけど、俺にとってのくだらない事は、どこかの誰かにとっては文字通り死活問題なんだろう。

何が「死」で、何が「活」なのかは俺には全くわからないが、俺以外の誰かにとっては自分自身の全存在をかけてでも成し遂げないといけない何かなんだろう。
そう考えないと整合性が取れない。


でも、これだけのくだらない事が次から次へと沸き起こるという事は、きっと、本当の意味ではくだらない事なんかじゃないんだろう。
それを、くだらない事だと感じてしまう俺の存在が既に周りの人にとっては害悪なのかもしれない。

 

だから、きっと、居てはいけないのは俺の方だ。

俺がいる事で、様々な災厄が引き起こされていくのかもしれない。
ここにいる俺以外の人達にとって、俺がいる事で降りかかるかもしれない災厄は、きっと俺以外の人達には、心の底からくだらない事なんだと思う。今の俺が感じているのと同程度には。


「意味」は受け取った人が受け取った形でそこに存在する。
受け取らなければ「意味」は無いし、どんな形であれ受け取ったのであればそこに「意味」は在る。


でも、その「意味」の意味はどうやって決まるのか?それすらも受け取った人が受け取ったように決まるのではないか。
だとすれば、「意味」の意味を受け取る意味を考えて、その意味を吟味して、意味を味わって…なんていうふうにずっと意味を受け取る事もできるのかな。
これが、気づきとか学びに繋がる事なのかもしれない。

こんな風に、俺が考えている事は正真正銘「くだらない事」だと思う。

 

だけどどんなに「くだらない事」からすらも意味は受け取れる。
例えば、さっき書いたように、ここにいる人達にとっては俺がいる事が害悪なのかもしれないという意味。

だとすると、俺がいる事が害悪にならない場所や人達と一緒に集団を形成する事が、俺にとっても俺の周囲の人達にとっても、くだらなくない、お互いの為になって、そして周囲の人たちの為になる事なんじゃないだろうか。

 

くだらない事すらも、くだらなくない事=価値ある事に変えていける。
それが、俺と俺の仲間が持つ意味なのかもしれない。

 

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