シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

ひとならざるあやかしもののけここにあり

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今日も朝から、毎週恒例の『ゲゲゲの鬼太郎』視聴だ。
子どもと一緒に観るという名目で、実は俺が一番楽しみにしてるのかもしれない。
今回の鬼太郎は、いつも通り面白く、そして単純にいい話だった。

 

50年前の約束、時を超えて時代を超えて、誰かの大切なモノを守って、自分達の守りたいモノも守る。
そんな妖怪たち。

 

結果的に誰かに守られていた事に気づいて、忘れていた昔の思い出も取り戻し、自分の行動を省みる。
そんな人間たち。

 

妖怪は妖怪の理屈で動く。
人間は人間の理屈で動く。
妖怪にも人間にも個別の理由があり、
その個別の理由が私利私欲から始まる場合、
他の誰かに多大な迷惑をかける事が無ければ良し。
さもなければ、
それなりの代償を払う事になる。

 

クソ野郎ばかりの人間が多数描かれるこの作品世界では、
こんなに素晴らしい仕組みが成り立っている社会に見える。

 

でも、この仕組みは鬼太郎とその仲間たちの存在抜きには成り立たない。

 

なぜなら、
鬼太郎は、己の私利私欲で行動をしないから。
基本的には、誰かのためにしか行動しない。
できるだけずっと寝ていたいと言うぐーたらな少年だ。
だけど、ひとたび善良な誰かが困っていると聞けば駆けつける。
そして、できる範囲での手助けを試みる。
でも、手助けの必要が無くなったと判断したり、
誰かに迷惑をかけている者を食い止める為であれば、
徹底的に戦う。それが鬼太郎だ。

 

ある者から見れば、とても怖いヤツ。
ある者から見れば、とても目障りなヤツ。
ある者から見れば、とても良いヤツ。
ある者から見れば、とても頼りになるヤツ。

 

敵であるだけでなく、味方であるだけでもない。
誰でも救ってくれるわけでもなければ、
誰も救ってくれないわけでもない。

 

そんな、曖昧と言えば曖昧な存在。
そんな曖昧な存在である鬼太郎がいるから成立するこの世界。
そりゃあ素晴らしいように見えるわけだ。
現実には鬼太郎はいない。


だけど、妖怪たちは存在する気がする。
自分の生き方を貫く妖怪。
自分の譲れないモノの為なら全存在をかけて戦う妖怪。
人間には理解されなくても自分の納得がいくなら何も問題にしない妖怪。
命こそ有限だけれども、それ以外の部分は全て妖怪のような存在。


最近の日曜日は、自分自身をいつも妖怪に照らし合わせてしまう。


俺は、妖怪図鑑に載るとしたら、一体どんな妖怪なんだろうか。