シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

単純明快にズバリこうでしょう


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自分自身の『足りてなさ』を、思いっきり自覚する瞬間に、久々に直面した。

この『足りてなさ』は、いわゆる反省とうものとは多分違うヤツだ。もちろん、後悔というヤツとも違う。ただひたすらに、自分の取り組みや姿勢といったものの奥底にあるであろう“真摯さ”というモノが文字通り足りていないのだという事に気付く事を指している。

正直に言って、この気付きから目を逸らしたい。今までの自分の言動が全て足りていないという事だったのだという、受け入れがたい事実。こんなものを正面から受け止めて受け入れるだなんて、本当にイヤだ。出来ることなら、気付いてしまったこの事実には気付かなかったふりをして、一生気付かないように生きていくのが俺にとっては良いことなんじゃないだろうかとも思うのだ。なにしろ、こんな気付きについては、誰にも言わずに生きていけばすむ話なんだから。

もちろん、そうやって生きていく事も可能だろう。そっちの方がどれだけ楽でストレスの無い人生なのか。今までの40数年間を『足りていない』まま過ごしてきてしまったという、自分の愚かさを認めたうえで、これまでよりも遥かに険しい道を進んでいくという、試練や鍛練や修業といったモノに取り組んでいくのだ。そんなもん、考えただけでツライに決まってる。

だから、俺は、そんな事はやらない。


そう言える位に強い人間だったら良かったのに。そんな風に言えるほどの強さは無いので、そんな事をやらない訳にはいかないのだ。俺は物凄く弱い人間なので、一旦気付いてしまって、一旦認めてしまった事を、さも無かったことのように無視して生きていく事ができない。それくらい弱い存在なのだ。

だから、試練だろうが鍛練だろうが修業だろうが苦行だろうが、気付いてしまったからには、やるしかない。
気付いているのに、やらずにいる事で自分の中の罪悪感が日に日に大きくなっていくあの地獄の業火に毎日少しずつ焼かれていくような永続的に続く苦しみに比べたら、取り組んだ方が全然楽だ。

あの地獄の苦しみをまた味わうのはもう御免なのだ。

気付いてしまったら何も無かった事にはできない。それは、外からは全然分からないかもしれないけど、自分の中ではこれ以上無い位にハッキリと明確に分かっている事なんだから。もちろん、本当は気付いているのに気付いていない事にしたいと思ってそういう行動をとってしまっている自分にも、自分自身は気付いているのも誰でも分かっている事なんだ。

分かってるんだから、やることは最早決まっているのだ。

何をどうしたら良いのかなんて、結局、話はいつも通りにとても単純なのだ。