シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

”経年”の後につづくのは”劣化”ですか?”変化”?

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昨日の土曜日に、旧友と再会し、久々にたくさんお酒を飲んだ。
お酒を飲みながら、焼き鳥を食べながら、懐かしい顔を見ながら、色んな話をした。

 

全員俺と同じ年の同学年なので年齢を俺と同じ40代前半。
皆の見た目には、当然この数年間分の変化が表れている。
でも、俺から見るとやっぱりあの頃のままなのだ。
付き合いが長いヤツだと小学校からなのでもう30年以上の付き合いだ。

 

昨日はさんざん飲んだ割にはいつものように記憶を無くすこともなく、集合した時から解散して家に帰るまでの全ての場面と話の内容を覚えている。正確には、思い出せないという場面が今のところ無いので覚えているはずだ、という事だけど。

飲みながらしていた話の内容は、もちろん思い出話にも花が咲き、それぞれの近況についてなどがメインの話題だった。で、昨日していた話を思い出しながら、ふと思ったのだ。

 

「俺、みんながどんな仕事してるのか詳しく知らない」って事に。

 

もちろんこれまでにも仕事の話を聞く事はあったし、職業については知っている。でもそれは仕事の一場面をかいつまんで聞いているだけで、聞いてるこちら側の知識が無くてもわかるレベルにまとめてもらった話の内容だ。そして、起きた出来事の顛末について話を聞いてもいる。もちろん詳しく知りたければ、仕事の質問をしまくっても何の問題も無いんだけど、この時間をその為の時間としては使いたくないのだ。
じゃあ、なんで「みんながどんな仕事してるのか詳しく知らない」なんて事を思ったのだろうか。

 

これは恐らくなんだけど、自分とその相手との関係性に由来するんじゃないのかなと。

 

例えば、同じ会社の人間であればそもそも同じ仕事に就いているので前提になっている情報の幅が大体わかる。何より同じ会社の人間に求めているモノは誰もが『仕事の成果』であるはず、というかそうでなければいけないはずだ。それが大前提として、そのうえで人間関係が生じてくる。

かたや、旧友であれば前提になっている情報は一緒に過ごしていた時期であり、それぞれの道を進み始めてからはお互いのやってる事は知らない事が前提になっている。そして旧友に求めるモノはもちろん仕事の成果なんかではない。じゃあ何か?というのは、その人によって違うんだろうけど、俺が思う旧友に求めるモノは『良い時間を共有したという記憶』なんじゃないかなと。


だから、正直に言って一緒に酒を飲む時に何を食べるかは問題ではないし、何を飲むか、どこに行くかも問題ではなく、そして、何の話をするかも問題ではないのだ。ただただ、良い時間を共有できれば良い。それ以外の何かはホントにただのツールであって、もちろんメインでは無いのでそこに存在して、その場を形成するためにそこにあれば良いのだ。


仮に、求めるモノがお互いに『〇〇の成果』であればこの時間は相手が旧友であっても、〇〇についてのミーティングという枠の中での話になるだろう。まずは〇〇の成果を出すために云々かんぬんという話に終始する必要があるのは当然だ。
でも、求めるモノが『良い時間を共有したという記憶』であるのなら、お互いの仕事について詳しく知る必要は無い。詳しくお互いの仕事について話をしあって共有するという時は、目的が『良い時間の共有』ではないはずだからだ。俺達が求めているのは、確認し合ったことが無いからというかそもそも確認し合う必要性が無いという話になるけれど、あくまでも『良い時間の共有』をする事なので、例えばお互いの仕事について意見を言う場面は必要ないのだ。俺達は誰も求めていないのだ。

にも関わらず、俺達はお互いに誰もが余計な話を深掘りしたり余計な話題について無駄な討論をしたりという事は一切無いのだ。つまり、俺達は俺達が集まる目的を何の打ち合わせも無く共有されている状態だったというだ。もっと言うと、目的の共有が必要な関係性であればそもそもこんな風にして集まる事はできないのだ。
友達と集まる目的はある。だけど、その目的を共有し、その目的を遂行するための集まりではない。

じゃあその目的は遂行されなくても良いのかと言えば、もちろんそういうわけではない。目的達成を目指さないのなら意味が無いのかといえば、もちろん意味は有る。だからと言ってさながら講演のように話の内容が有用かどうかはまるで関係無い。でも、俺にとっての意味は相当大きい。

 

何を言っているのかよくわかない状態になってるかもしれないけど、恐らくこういう事なのだ。


想いが自然と共有できている状態だから一緒にいて心地良いと感じるんだろう。
だから、その時間を『良い時間』だって記憶するんだろう。

 

そして、こんな『良い時間』を共有してきたからこそ、目の前にいる友人が会社で毎日何をしているのか、家で毎日どんな風に過ごしているのかについて、事細かに問いたださなくても、その目の前に座ってくだらない話をして笑っている様子を見ているだけで、「具体的な話」という情報が無くても日々をどう過ごしているのか、彼らの幸せと言っても良いであろう日常を垣間見たような気持ちになれる位には想いを馳せらせる事ができる材料が手に入るのだ。

 

何の感動的な話も無く
何の熱い話も無く
何の目から鱗的な話も無く
何の有用な情報も無い
むしろバカ話の類ばかり
だけど
これまでの40年以上の時間と
どれくらいあるかわからないけど
残されてるこれからの時間を
毎日悔いの無いように過ごして
また
この友達と集まる時間を作って
「良い時間だったなあ」という記憶を
これからも増やしていくぞ

 

そんな決意と言うにはボンヤリした、だけど、今まで以上に明確な、いわゆる目標がまた一つ増えたのだ。

 

40代になれば見た目の変化は段々出てくるんだなあという老化を客観的に受け入れる良い機会だったのと同時に、何十年経ってもホントにあの頃のままな部分がずっと残っているという事を再確認できた。

 

物理的な老いは、形あるモノである限り仕方ない。
だけど、
精神的な老いは、その人の姿勢が決めるのだ。

 

アントニオ猪木の言う通りなのだ。
「人は歩みを止めた時に老いていくのだと思います」