シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

「あれは良いモノだ」マ・クベさんはそう言っていたよね


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先日、出張先でイベント運営の仕事があった。

そのイベントは、小規模ながらも司会進行が必要なものだった。
司会進行は、もうすぐ入社から2年が経とうとする40代の男性社員Kさん。

「数年後は、フリーランスとしてやっていきたいんです」とよく言っている。そんな人だ。

そんな彼が司会進行を行うに辺り、このイベントにはすっかり慣れているウチの4年目の若手社員がイベントの運営原稿を作成して、ずいぶん前に手渡してある。
本番までに、できるだけたくさん練習しておいてもらえるように若手が気を利かせた仕事をしたのだ。

昨日、Kさんに電話で今日の司会について確認をした時には、「まだ100回まではいってませんが、数十回は練習しています!」と意気揚々と語っていた。
もちろん、言葉で何を言っていても、今日の本番でどんなパフォーマンスを発揮してくれるのかが一番重要なので「明日はよろしくお願いします」とだけ伝えておいた。変なプレッシャーを感じることなく、でも気を緩めることもなく、一番良いモノを発揮してもらえればいいなと思っていた。

ところが、今日のイベントではスタートと同時にグダグダだった。

何しろ、声が出てない。会場の広さに適してない声量でしか発声しない。
何しろ、目線が原稿にばっかり向いている。
何しろ、参加者を一つも見ていない。
何しろ、原稿に書いてある文字を一字一句間違えないように気を付けることだけに集中している。

Kさんのやっていた事は、イベントの間中、ただのこれだけしかやっていないのだ。

当然の如く、参加者に伝えたい事は届かず、皆が思い思いの行動を取り始める。全くコントロールが効いていない。
「なんじゃこりゃ?」
もちろん、イベント中に修正をするよう伝えたがてんで効果は無い。相変わらず、Kさんは原稿を一字一句間違えないように読み上げるだけだ。
更に悪いことに、変なところでカッコつけた話し方というか、いわゆる『クールに見える(と思っている)話し方』をやり始めたのだ。
具体的に言うと、『語尾を下げる話し方』だ。言葉の終わりに向かうに従って、語尾は下がり、言葉は消え入るように終わっていく。アニメやドラマでクールなキャラよくやるような話し方と言えば分かりやすいのかもしれない。
ともかく、原稿を丸読みしながらそんな話し方をするもんだから、参加者達の意気は下がる一方だ。

とはいえ、司会者がそんな有り様でも、イベント自体は進むのだ。 なぜなら、そういう構成で作ってあるイベントだから。
この辺りは、構成の妙がなせるわざだ。

今回のように、例え司会者がポンコツピーポーだったとしても、その要因だけでイベントが回らなくなるという事にはならないようにしてあるのだ。
司会者の能力に頼らず、イベント自体はしっかり回る。
つまり、どんなスタッフが配置されても、イベント自体の及第点はとれるようになっているのだ。

とは言えだ。

そこはやっぱり仕事なので、いつだって高みを目指してやっていきたいという想いはある。なぜなら、そうした方がより目的の達成に近づくからだ。

だけど、それは、参加するスタッフの力によるところが大きい。

今回のように、とりあえずの成果を出すことはできる。
どんなスタッフが集まろうと、とりあえずできる。

でも、素晴らしいモノを作ろうとすると、チームメンバーの能力や意気や頑張りによってくるのだ。

原稿があるから、誰がやっても及第点がとれるという意味では、誰でもいいけど、本当にしっかりとしたイベントにできるかどうかでいうと、誰でもいいわけじゃない。

そんな事があらためて、身に染みたのだ。


自分が関わって作り上げるモノを、どんなモノにしたいのか。
どんなモノを作り上げたいのか。
とりあえずのモノで良いのか。
目的に照らし合わせた理想を目指したモノにしたいのか。

違いはそこにしか無いんだと思う。


「やるんだったら」
その言葉のあとに続くのが、

「手を抜いて楽したい」なのか、
「良いモノにしたい」なのか、

何を主語に持ってくるかで、仕事の良し悪しは、決まっちまうのだ。

これが分岐点なんだよな、やっぱり。