その優しさ、半分じゃきかないかもしれないよね
「一生懸命やってます」
その事を声高に主張する人達がいる。
一生懸命に何かに取り組むのは素晴らしい。
適当に何かに取り組むよりも、どうせやるなら、一生懸命の方が良い。
それは間違いない事だ。
でも、事柄によっては、“一生懸命”かどうかは関係ない場合が往々にしてあるのだ。
“一生懸命”かどうかよりも“何のためにやるのか”の方が大事な事がある。
その最たるモノが仕事だろう。
目的を遂げる為にやる。そのためなら取り組み方は問題じゃない。なぜなら、一生懸命やったとしても、目的が遂げられなければ、つまり成果が出なければ意味が無いからだ。それよりも、例えどんな取り組み方だとしても、仮に適当な取り組み方だとしても、目的を遂げる、つまり成果を出す事の方が重要である。
ということは、目的を遂げる事が重視される事柄や状況の場合には、「一生懸命やってます」という主張は何の価値も無いという事になる。もし、一生懸命に価値があるとしたら、それは一生懸命に取り組んでいる自分自身だけにとって意味や価値のある事であって、それ以外の他人にとっては何の意味も価値もありはしないのだ。つまり、一生懸命やっているという“自分自身の姿勢”について何がしかの評価を“他人”に求めるという行動は、大きな間違いだという事だ。
ただ、目的自体が“一生懸命やる事”の場合はその限りではない。
目的そのものが“一生懸命さ”にある場合には、一生懸命やる事が他人からの評価対象になるのだ。その最たるモノが、学校教育の中での様々な事柄だろう。
学校における勉強やスポーツはその多くが“一生懸命に取り組むこと”が目的である場合が多い。そうして、一生懸命取り組んだ先で得られるモノを大切にしているのが教育だからだ。
そして、そのクセが抜けないまま仕事をするようになると、冒頭のようなことを言うようになってしまうのだ。
「私は一生懸命やってます。だから評価して下さい。一生懸命やってるのになぜ評価してくれないんですか?こんなに一生懸命やってるのに、苦手な事にも歯を食いしばって一生懸命取り組んで、なかなかうまくできないけど一生懸命やってるんですよ、だから、あんなに軽々と楽々と楽しそうに仕事してるヤツラなんかよりも私を誉めて下さいよ。そうじゃないと不公平でしょ?おかしいじゃん!」
仕事では、目的を遂げる事が求められる。仕事は成果を出してはじめて評価の対象になる。だから、取り組み方は問題じゃないのだ。
だけど、取り組んでる方からしたら、取り組み方を評価して欲しいと思ってしまうのだ。
なぜならば、そっちの方が“楽だから”だ。成果を出せるかどうかはわからない。だけど、一生懸命取り組んだかどうかは、自分が決められる。恐らく、考えているのだろう。
でも、実際に一生懸命取り組んだかどうかを評価対象にしてしまうと、その評価は結局のところ、自分以外の他人によって下されるものなのだ。そうなってくると、“一生懸命かどうか”は相対的なモノになってきてしまう。
昨日の一生懸命さよりも今日の一生懸命さの方が上かどうか、Aさんよりも一生懸命かどうか、その人の限界値を超えた一生懸命さかどうかetc。
これって、実はとても不平等なことじゃないだろうか?
だって、持ってる能力や特性やその日の体調によって発揮できるパフォーマンスもみんな違うはずで、その全く違うモノをモノサシにして相対的に決めていくという事になるのだ。これは、もはや“評価”ではない。ただの、一生懸命タフガイコンテストだ。誰が一番、一生懸命になるために無茶できるか、そのコンテストだ。
だから、一定の明確な基準を設けてある“成果”を生んだかどうか、目的を遂げたかどうか、そっちの方がよっぽど評価をする時には平等だし健全なのだ。成果を生めばOK、生めなければNG。ただそれだけ。どんな取り組み方をしようが、それは問題ではない。
成果主義って、とても大変だけど、実は、誰に対してもとても優しいのかもしれない。