シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

「はっちゃけはっちゃけ」と唱えなくても実はとっくにはっちゃけてるのかもしれない

f:id:shiotapathos:20190120224754j:plain

 

自分では気付けない事がある。

 

よく、そんな事を思う時がある。

自分の長所短所、得意不得意、性格の特徴や立ち居振る舞いなどなど。

客観視が必要になる事の大半は、自分では気付けない事になるだろう。

それらは、大抵、自分以外の誰かから見たらすぐ分かる事ばかりだ。

というか、ここに挙げたモノもそれ以外もそのほとんどは自分以外の誰かから見たらすぐに、一目で、あっという間に分かる事ばかりなのだ。

 

そのうちの一つに“疲労”も含まれる。

 

先週くらいから、どうやら疲れていた感覚がなんとなくあったけど、そこまで明確に「俺、疲れてるなあ」と思う事は無かった。いや、正確に言うと、「俺、疲れてるのかな?」と思う事はたくさんあったけど、が頭に付くんだけど。

 

そんな、疲労を感じたのが今日だった。

 

今日は休日という事もあって、朝から県を越えてスキー場まで行ってきた。

とは言え、俺はスキーもスノーボードも出来ない。

どちらもやった事はあるが、若い頃に何度かやった事があるだけで、自分の道具も持っていなければ、毎年シーズンになったら雪山に行くような習慣も無い。と言うか、今思い出してみたら、正確には思い出せないけど、雪山に最後に行ってから、約20年近くの時が経っていた気がする。

 

なぜ、そんな俺が雪山に突然行く事になったかと言えば、子どもの保育園の行事だ。

その保育園では、冬に“そり滑り”なる行事があるのだ。とは言え、雪が降らない地域にある保育園だけど、子どもには色んな経験をさせたいという方針の保育園なのだ。なので一定の学年(というのか?)になるとこの行事に参加する事になるようだ。だから、子どものスキーウェアは買ってあった。でも、親である俺はスキーウェア自体を持っていない。今までは全く必要としなかったけど、子どもが保育園の行事で雪山に行く前に、一度、予行演習的に“そり滑り”を体験させておくのもいいだろうという事で、約20年ぶりに雪山に行く事になったのだ。

 

とは言え、俺はスキーもスノーボードもできない。そもそも、そり滑りができればいいのだ。という事で、スキー場に併設してある“子どもの遊び場”的な場所でそり滑りや雪遊びをして午前中を過ごしてきたのだ。なので、スキーやスノーボード的な己の体を駆使して遊ぶという事はしていない。ただ、雪山を眺めながら、何度かそりで緩い坂を滑って、子どもと一緒に雪をシャベルで掘ったりして過ごす事約3時間。間に休憩を挟みながらだったので、この時間内での肉体疲労は全くと言っていいほど無かったはずだ。

 

なのに、どういうわけか、帰宅してからあまりの疲労で動けなくなった。

眠くて眠くて仕方がないのだ。

 

今日は、特に大した運動もまだしていない。

昨日土曜日のトレーニングは肩の日だったので、大きい筋肉は動員していないからそれ程の疲労度は無かったはずだ。そして、夜更かしもしていないし、朝もそれほど早起きしたわけでは無かった。

 

なのに、眠い。

この眠さは、体が疲れている時に特有のものだ。

それだけはこれまでの経験上わかるのだ。

 

なので、帰宅してすぐ風呂に入り、即就寝したのが午後5時頃。

それから5時間程寝て起きたところで今これを書いている。

そして、どうやら、この後も結構すぐに眠れそうな程度には今も眠い。

俺の体はかなり疲れていたようだ。

 

自分では気付けない事がある。

 

そう出だしで書いたけど、実は、この疲労には恐らく気づいていたはずだ。

自分でも自覚はあった。

例えば毎に朝からずっと眠いとか、例えばいつも間違えないようなトレーニングの際のプレートの計算間違いとか、例えば「俺なんか疲れてるかも?」と思うとか。

今思えば、自分で気づいているのだ。

だけど、

違和感に気付いているのに、それをそのままにして、そこから考えるのを止めていただけなのだ。

 

だから、きっと、違うのだ。

 

自分では気付けない事は“ない”のだ。

ただ、気付いた事を、自分で認めるという事を“する“のか“しない“のか。

そして、

認めたのであれば、それに対処“する”のか“しない”のか。

ただそれだけなのだ。

 

それが、客観視の正体なのかもしれない。