ヤバいよヤバいよ、一番ヤバいの出てきちゃったよ
病み上がりの出社だったけど、朝からとても穏やかな一日だった。
溜まったメールの処理をしつつ、1日半いなくても業務が滞らない状態になっていて、奔走してくれた人には感謝しかない。とは言っても、俺がいない時に奔走してくれるのはたった一人しかいないのだけど。もちろん、唯一の同志である中間管理職仲間のMさんだけだ。
そんなMさんと打ち合わせをしていた午後の事だ。
そろそろ夕方になろうとしている時間帯、打ち合わせが長引いたので一度トイレに行こうと部屋を出て、廊下を歩いている時に別のスタッフに後ろから呼び止められた。
振り返ると、そこには、そのスタッフ以外にもう一人立っていた。
そこに立っていた男は、スーツを着てマスクをしている男だ。一体誰だ?と思う間もなく、マスクをしていてもすぐに分かった。と言うか、マスクがあろうとなかろうと、いや、100m先からでも絶対に見間違える事の無い程特徴的なその男の事を忘れるわけがない。もちろん、毎日思い出していた訳ではもちろんないけど、コイツの姿を見れば一瞬で思い出せる程度には嫌な思いをさせられた記憶が甦る。
そう、以前にウチの店を散々騒がせてくれた、我が店舗はじまって以来初めて、堂々の殿堂入りを果たした伝説級のクレーマーだ。
「あれ?確か、ウチの店舗で初の出禁を喰らったはずだけど一体何しに来たんだ?」
そう思っていると、俺の方に近づいてくる出禁マン。
マスク越しにでも分かる程ニヤついている。
そんな出禁マンに対しても、一応は俺もサービス業の端くれだ。
「どうされたんですか?」軽く笑顔で声をかける。
その途端、始まった。
終わりの無い、出禁マンのマシンガントークだ。
話の内容は、出禁になった当時と同じく、ウチの店舗への文句が3割、そして、大嫌いな俺に対する個人攻撃が7割だ。これを、ウチの店舗内ではなく、店舗が入っている建物内の共用スペースでかましてきた。
5分経過。
終わる気配は全く見えない。
俺には相槌を打つくらいしかやることがない。
10分経過。
さすがにそろそろ時間が無駄に思えてきた。
時折、相槌以外の言葉も挟んでみるも何の意味も為さない。
15分経過。
いい加減、思い出してもらう事にした。
己自身が既に『お客様』ではないという事を。
さすがにもう付き合い切れない。
そうして、できるだけ感情と声のボリュームを抑えつつ、お引き取りいただけるようお願いをした。もちろん、それに対する出禁マンの返しも想定内であるので、返ってきたその言葉を受けて、またもや同じようにお願いをする。後は、延々この繰り返しを行うだけだ。
その間に、出禁マンはあの手この手で揺さぶりをかけてくるも、全てに対して俺の対応が同じなので、最終的には俺のしている仕事と仕事ぶりと俺への罵倒を一通り述べて、捨て台詞を残して去って行った。
ここまでで実に20分以上が経過している。
で、去って行ったのはいいが、一体全体、彼は何をしにやってきたのかは分からないままという謎が残る。
恐らく、あの感じだと、近日中にまたやって来るだろう。
そして、その理由は今回同様分からないままになるんだろう。
もちろん、彼の事を理解した訳ではない。と言うか、理解できる訳は無いのだ。
なぜなら、もし理解する事ができるのであれば、そもそもこんな事にはなっていないし、あんなに理不尽且つクレイジーな言葉の雨あられを他人にぶつける事ができるはずがないのだ。
行動原理が不明な人間は確実に存在する。
もちろん、徹底的な分析を行えばその行動原理の解明はできるだろう事は分かっている。
だけど、彼に対してそれを行う価値があるのかと問えば、その価値は全く無い。
切り口やアプローチを変えれば、その価値が生まれる事もあるとは思う部分もあるけれど、今のこの会社の方針と目的に沿って考えれば、出禁マンのような人間に対してそこまでやる事は費用対効果が悪すぎる。
なので、ああいう輩が次にやってきた場合も、彼と同様に『出禁』という対処をするのが、ウチの会社の商売上、全方位的にベターなのだ。
とは言え、彼のような人間にも何らかの『居場所』は必要なんだろう。
そういう『居場所』のようなモノを提供する事ができるような世の中だと、彼のような人間も、彼のような人間に的にかけられる俺のような人間もウチの店のような場所やそこで働く人達も、皆が嫌な思いをする事無く、そして、接触する事でお互いに嫌な思いをする人達同志が出会う事無く、平穏に生きていけるのかもしれない。
そんな事を、あの出禁マンを見る度に、思い出す度に、考えたりするのだ。
なんてまるで社会について考える良い人気どりのような事を言いながらも、実際に出禁マンに面と向かって罵倒され続けてる時には、もちろんこんな事も思うのだ。
「コイツ、マジで○ねばいいのに」って。
病み上がりにも関わらず、
どっちも心の底から思っている事なので、
もしかしたら、
俺が一番ヤバいヤツなのかもしれないのだ。