シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

行ったり来たりが自在にできると味方がたくさん増えるのだ

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「自分の目で見た事しか信じない」

 

漫画かアニメか小説か、そういう何かのセリフだったのかもしれないけど、この言葉を信条として掲げていたヤツが学生の頃にはたくさんいた。

その当時は、「何かよくわからないけど自分の意見ってヤツがあるんだな」という事は思っていた気がする。ただ、そういう事を言うヤツとは、何となく仲良くなれなかった。

なので、そういうヤツラが今どうしているのか、どんな事を考えているのか、俺には全く知る由も無い。

 

何でそんな事を思い出したかと言うと、先日、仲間と話をしていて、「自分が経験してみて初めて理解できる事がある」そんな話が出たからだ。

 

時折耳にする言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがある。今、ネットで調べたらオットー・フォン・ビスマルクの残した名言らしいが、この名言と、先日の仲間の発言はよく似ているように聞こえるが、その実は全く違うのだ。いや、正確に言うと、同じなんだけど。

 

何が全く違うのか?

仲間が言った「自分が経験してみて初めて理解できる事がある」というのは、愚者が己の経験からのみ学ぶという意味とは異なる。なぜなら、自分の経験を元に何か別の事柄を理解しているからだ。つまり、自分のした経験というこれ以上無い程の具体を、一度抽象化して、更に別の事柄を抽象化したモノと比較検証し、具体化したうえで理解するという高度な作業を行っているのだ。ちなみに、愚者が行っているのは己の経験というこれ以上無い具体的な事柄が世界の全てだと考えているという事だ。

また、名言の中の、賢者は歴史に学ぶというのは、歴史という壮大な物語の中にある膨大な個別事情を抽象化して、それらの中の最大公約数的なモノを抜き出し、それを現在の自分の身の回りに置き換える、つまり、具体化して転用するという作業を行っているのだ。

なので、仲間が言った「自分が経験してみて初めて理解できる事がある」というのと、ビスマルクの名言「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というモノは、“経験”という言葉の使われ方が全く違いながらも、言っている事の骨子である“抽象と具体を自在に操り転用する”という部分は全く同じなのだ。

 

という、ちょっと考えると至極当たり前の話なんだけど、そんな事を考えた時に、冒頭の言葉を言っていた昔の知り合い達を思い出し、なんとなく仲良くなれなかった理由はこの辺りにあったんじゃないかななんて事を、あれから何十年も経った今になって思い返したのだ。

 

 

うん。

どうりで、昔から友達が少なかったわけだ。