シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

できそこないとハサミは使いよう


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「俺は、まだまだ人間ができていない」
そう思うような出来事が今日あった。

いつも利用しているカフェから出てトイレへ向かう為にカフェの出入口を出ようとした時の事だ。
出入口付近に、カフェに入ろうかどうしようか相談している様子の5~6人の高校生がたむろしていた。ただ相談しているだけなら何て事ないいつもの風景だけど、その高校生達はなぜか通路一杯に広がって相談しているのだ。
楽しそうに話をしている高校生達は当然ながら出入口から彼等の方向に歩いている俺の存在には気付いていない。その楽しそうに盛り上がっている“壁”を目の前にして、わざわざその“壁”を突っ切って行くのも、わざわざ注意をするのも、何やら押し付けがましいし気もするのでその壁をぐるっと迂回してトイレへ向かおうと、方向転換をして1~2歩踏み出したその時だった。

「俺に行動を強いるな!」

そんなフレーズが俺の頭の中に響いた。不快感とともに。

そうなのだ。
高校生の“壁”を迂回せざるを得なかった事が、どうやら俺にとって「行動を強いられた」と感じ、不快感を覚えた原因のようなのだ。

そんな、自分の心の狭さを反省しながらも、その瞬間の自分の心の動きを冷静に振り返りながら用足しをしている時に、こんなアイデアがやってきたのだ。

「行動を強いられるのは誰にとっても不快感を感じるんじゃないのか?」と。

あの時、俺に選択肢があったとしたらこんなに不快な気分にならなかったのではないのか?例えば、俺の導線が塞がれていないけど彼等に道を譲るという意味で迂回をしたとしたら、この“不快”は逆に“快”に変わっていたのではないのか?それこそ、電車の中で席を譲った時のように。俺のとる行動は全く同じで労力は何も変わらないにも関わらず。
という事は、俺があの高校生達の立場だったとしたら、導線となる選択肢を『迂回』と『近道』の2つ用意しておけば、あの時の俺がそうと気付く事のできない状態で勝手に“快”の状態にさせてあげる事ができたのではないか。
それはつまり、あの時の俺が自ら「道を譲った」と思える状態にしてあげることで、あの時の高校生達にとってはとてもポジティブな環境を生み出すことが可能になるということだ。

そんな事を思い付いたので、一刻も早く仲間に話したいと思い、トイレから戻っていく途中で、さっきの高校生達がお店のカウンターで整列して注文をしている様子を見て、「なんだ、ちゃんとしてる子達じゃん」と思った瞬間に上記の思い付きの内容を全て忘れてしまって、しばらくの間、この話の内容を思い出せなかったのだ。

俺は、人間ができていない。
だけど、そのお陰で今後の仕事に大いに生かせそうなモノが手に入ったのだ。

他者に行動を強いると、自分の知らないところで恨みを買う可能性が出てくるので、他者にはいつでも「選択肢の中から選んでもらう」のが大事。それこそが、納得と満足に一番大事な事なのかもしれない。