シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

もしかしたらバタフライエフェクト的な現象かもしれない


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『需要と供給』の真実に辿り着いたかもしれない。

この世界では、『需要と供給』のバランスで物事の価値が決まってくる。そんな事が真しやかに言われている。
だけど、あれは本当の話なんだろうか?

その昔、今の世界のように平和が当たり前のように存在している状態ではなかった頃に思いを馳せると、その頃は、まさに需要と供給のバランスによって物事の価値が決まっていたのは間違いないだろう。その頃は、衣食住を確保する事の重要性が今の世界の比ではなかったのは容易に想像できる。衣食住が一度欠けてしまえば、それはすなわち生命の危機に直結する出来事だったはずだ。だからこそ、需要と供給のバランスによって、ある時は人命よりも食料の方が重要視されていた時代もあったのだ。そういう生命に直結するモノは、いつでもまず、『需要』が先にあったのだ。

「それを手に入れないと死んでしまうから必要だ」という切実な需要がいつでも先にあったはずなのだ。

だけど、今の世界ではもはや衣食住は満たされていて当然の状況なのは誰もが認めるところだろう。もちろんそうである人ばかりではないのは知っているけど、この国に措ける全体を見た時の割合で言えば、衣食住の欠如が生命を脅かす状況にあるのは例外に当てはまるだろう。

そんな、最低限の衣食住はほぼ満たされているこの世界において、「物事の価値は『需要と供給』のバランスで決まっている」という話が果たして真実なんだろうか?

例えば、生命に直結しない事柄の価値が本当に需要と供給のバランスで決まるんだろうか?例を挙げるとしたら、いわゆるエンターテインメントなんかはどうだろうか?
エンターテインメントの価値は誰が決めてるのか?本当に需要と供給のバランスで決まってるのか?

「多分、違う」

ちょっと冷静になって考えたら、大抵の人はこう思うんじゃないのか?そもそも、需要が先にあるはずがないのだ。まず、『供給』が先にあるはずだ。そうでなければそもそもエンターテインメントの存在が成立しない。まず、なにがしかのエンターテインメントを待望する観客が先に存在してから、エンターテインメントが生まれてくるわけがないのだから。

つまり、『供給』から出来上がり、その後で『需要』が生まれているのだ。
もう少し言えば、『供給する側の、「供給したい」という需要があって、「それを享受したい」という需要が生まれる』という、考えてみればとても当たり前の話だ。

そう考えると、「需要と供給のバランスで価値が決まる」というのはとても欺瞞に溢れている。むしろ、本当はそうでない事は誰でも分かっているのに、敢えて勘違いをさせるための言説な気がしてならないのだ。

本当のところは、
「供給したい人の熱量によって発生した渦に、幸か不幸か巻き込まれた人達が、あたかも需要を持っていたかのように思わされてしまった」という話なんじゃないだろうか。

そんなことを、今日の仕事終わりにしていた雑談で考えていたのだ。

まず、「供給したい」という熱。
現代においては、これが全ての始まり。
そう考えると色々しっくりくる気がする。