シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

偉い人にはそれがわからんのです


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モノの価値はどうやって決まるのか?

普段何気なく生活していると、物の価格は基本的に予め決まっているのでそんな事を考える場面にあまり遭遇することはない。
でも、本当はみんながそれぞれモノの価値を知らないうちに決定している事があるのだ。

例えば、何かを見た時、聞いた時、味わった時、読んだ時、体験した時、などなど。それらについて対価としてのお金を払うまでは誰でもするだろうけど、そのモノを「また利用したい」と思うかどうか。また利用したいと思うということは、つまり、そのモノに価値を見出だしたという事なのだ。

誰かにとっては、その映画はクソ駄作であり、誰かにとっては不朽の名作だ。
誰かにとっては、そのバンドの曲はただの騒音であり、誰かにとっては涙を禁じ得ない魂のサウンドだ。
誰かにとっては、そのラーメンは完食できない不味い代物であり、誰かにとっては行列に2時間並んでも食べたいご馳走だ。

そんな風に、誰でもが何かに対しての「自分なりの価値」を決めて生きているのだ。

じゃあ、その価値は一体どうやって決めているのか?何かを基準にして決めているのだろうか?

恐らく、価値を決める時に誰もが重要視しているのは『感情が動いた大きさ』じゃないだろうか?それによって自分にとっての価値を決めているんじゃないだろうか?
嬉しい楽しい幸せ悲しい切ないなどの感情が、モノの価値を決める時に見ているんじゃないだろうか?

もし、感情が動いた大きさが価値を決める指標なんだとしたら、人の心を大事にするというのは、社会的な活動をしているいわゆる『仕事』において最早論ずるまでもない当たり前中の当たり前に過ぎない。

だけど現実の社会はそういう風にはできていない。現実的には、人の心を如何に無視して己の欲望を満たすかが重要視されているように感じられる場面がとても多い。

という事は、価値を決める時に感情が動くという事に対して賛同する人はいないか又は少数派なのかもしれないけど、いずれにしてもそんな行動はとれないはずだ。
若しくは、この社会の基本設計が大きく歪んでいるのかもしれない。

だからこそ、最近では、特に「資本主義の限界」なんて事が色んなところで言われるようになっているのかもしれない。

これからは『価値』の時代。『価値』を決めるという事がとても重要になってくるはずだ。これはもうまぎれもない事実だろう。であれば、己の感情は、何によって、どのように動くのか。それを注意深く観察して記録をとる事が必要になってくるのかもしれない。