シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

同じ景色がどう見えてるのかお互いに知ることはできないから


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どんな世界が見えてるのか?

今日、仕事で会った人についてそんな事を思った。

相手について詳しいことは何も分からない。ただ、本人の口から「大変だ」という話が繰り返される。いわゆる、生きづらそうな様子の話が語られる。
過去の自分の話、今の自分の話、過去の自分の話、今の家族の話。そんな内容が語られる。ところが、未来の話になると、途端に「考えられない」とか「考えてなかった」という内容ばかりになる。
これだと、きっと生きづらいんじゃないだろうか?そんな風に感じられたのだ。

もっと未来に目を向けたら、別の対応とか計画とかでてくるんじゃないのかな?そんな風に思いはしたけど、その人は、俺にそんな助言の類を求めているわけではないので特にそんな話はしなかった。

そもそも、当事者からしたら別の対応とか計画とかすら求めていない可能性だってある。なぜなら、そんな対応なんかは、誰でも思い付くくらいのものだからだ。そんなに特殊な方法なんて必要ないくらいのケースだ。言ってみれば、極ありふれたそこら辺でよく遭遇するようなケースの話の一つだ。ということは、そんな対応や計画を思い付かないわけもないし、誰かに既に言われていたりするはずだ。そのうえで、それをやっていないんだから、そもそも求めていないのではないか?そんな風に思うのだ。

ということは、もしかすると、生きづらいのでは?と周りが思っていたとしても、その人は実は現状に満足しているのかもしれない。そんな風にも考えられるんじゃないかなと思ったのだ。

パッと見だと、生きづらさや悩みを抱えているように見える気がするけど、当事者はそんなことは全然なくて、それよりも、その人からは、そんな事を考えている俺みたいなヤツの方が生きづらさを抱えている人間に見えるのかもしれない。

生きづらさの内側と外側で、そんな事を考えた。