シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

長雨の夜更けに考えてみたらば


f:id:shiotapathos:20190716011725j:image

どうにもならないことを考えてもどうにもならないよね。

人の話を聞いていると、どうにもならない事を言っている人がとても多いと感じることがある。今の時期では天気の話題がその最たるものかもしれない。

天気は自分の意思や取り組みで変えられるものじゃないのは今の時代だと誰でも知っている。それでも、天気についての不満を話題にしている人達が多い。

もちろん俺もその一人だ。
雨よりも曇りよりも晴れている方が良いし、暑過ぎもせず寒くもない気温が良いし、一日の中の寒暖差もないほうが良いし、水不足や作物の不作も無い方が良いし、食料には彩りが欲しい。そんな、ワガママ邦題の希望があるし、希望が叶わなければ不平も不満も大いに感じるようなとてつもなく身勝手で自分の都合ばかり考えてしまう生き物なのだ。
あらためて文字に起こしてみると、マジでどうしようもない感じだけど真実だから仕方ない。

そんな俺が、自分の意思や取り組みで変えられるものではないような事について「考えても仕方ないよね」と思うようになったのはいつからだったのか。覚えてはいないけど、そんなに遠い昔じゃ無いと思う。それまでは本当にどうしようもない位に、そういう類いのどうしようもない事柄についてウジウジグジグジ考えていた。というか、意味の無い悩むという行為をしていた時間がたくさんあった。

でも、そんな事をしてると当然ながら、前に進めなくなるのだ。これは当たり前の話で、自分の意思や取り組みで変えられるものではない事柄について「どうしたら良いのか?」と考えているんだからどうしようもないのだ。どうしようもない事をどうしたらよいかと考えているどうしようもない状態。もはや無限ループ。

その頃のどうしようもない体験もあって、今の自分は、どうにもならない事を考えてもどうにもならないから、どうしようもない事は考えず、どうにかできる事にのみ力を向ける事に決めている。

ただ、どうしようもない事が本当にどうしようもない事なのかについて考えるというのは必要な事だと思っている。その『どうしようもない』は、本当にどうしようもない事なのか?どうして、どうしようもないと断定できるのか?その理由が明確に、どうしようもないと証明されているのか?

そんな事について考えるのは決してどうしようもない事ではないのだ。

そんな風に考えると、「この雨いつまで続くのかねえ、ウンザリする」という独り言ともとれるような誰かの話も、何が問題なのかについて考えるよい題材なのかもしれない。

と言うことは、もしかして、どうにもならない事を考えてもどうにもならないと言うことは無くて、どうにかできないだろうか?と考える事で、どうにもならないと思われている事はどうにかできるかもしれない事になるということなのかもしれないぞ。

さあ、いよいよ何を言っているのかわからなくなってきたところで、今日はこの辺で。