シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

その熱はどこから?


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他者との間には溝があり、そこに橋を架ける。

最近、色んな人が言っている。自分の体感としてもよく思うし、よく考える。
恐らく溝が無い人はいないし、完全に自分と同じく分かる人はいない。もしいるんだとしても、その人に出会えるのは、宝くじに当たるよりは遥かに低い確率だろう。

だとしても、架ける橋の数やその橋で渡せるモノの量ができるだけ多くなるようにする努力はやらないといけないんじゃないのか?そのために何ができるのか?いつもそんな事を考えてる。

伝え方、話し方、表情、態度、見た目等々の様々な『やり方』がたくさん溢れてるし、それらを使うとさもやりたかった事が出来たような気がする。ただ実際にはどうなのか?本当に相手との間に橋は架かったのか?渡せるし受け取れる橋の広さになったのか?そもそも、それって本当に『やり方』で実現できるモノなのか?考えれば考えるほど『やり方』ではどうにもならないってのが浮き彫りになるだけだ。できたような気がするだけだ。しっかり振り返ってよく目を凝らして見てみたら、そこに架かっているのは凡そ人が行き来できるような材質ではないナニかで作られた橋の形をした全くの別ものだったりしないのか?そもそもその橋の材料や、もっと言えば、その材料が産み出される工程における材料の選定方法とか作業工程における温度調整とかもかなり重要だったりするのではないのか?

そんな風に考えていったら、今現在辿り着く事のできる限界まで行き着いた感じがしたのだ。

橋の材料になるのは何なのか?その材料が産み出される際に最も必要なのは何なのか?そもそもそれはどこからやってくるのか?

きっと、この変が“底”なんじゃないのかな。