シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

これも対等の一つの形


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言語が通じなくても意志の疎通はできる。

あらためてそう思ったのだ。

俺が生活の中で出会う人はほとんどが日本語を話す人だ。加えて俺は日本語しか話せないし他国の言語は理解できない。なので、俺が他者と意志疎通をはかろうとしたら日本語でのやり取りをするしかないし、する必要がない。それでも、意志疎通が難しい人達に多々遭遇する。そんな日々だから、『伝える』や『伝わる』について考えるし、『考える』について考えるのだ。

そんな日々の中で、ふと意志疎通に苦労しない瞬間に気付いたのだ。
その相手は日本語が使えない。いや。それどころか相手はヒトではない。猫だ。

家で飼っている猫たちの中で唯一意志疎通ができる猫がいる。呼べば応えるし、呼ばれればそれが分かる。何を要求されているか分かるので、その都度その都度で猫の要求に応えることもできる。もちろん、間違っていれば指摘もしてくるし、こちらの要求もある程度は理解している。そんな意志疎通だ。でも、その猫以外とはそれほど意志疎通はできないのだ。

いつもしている猫とのやり取りをしながら、ふと「何故言語を介さずに意志疎通がてきるのか?」疑問を持った。

正直、理由は分からない。だけど、唯一分かるのは、お互いに相手の事が分からないという前提を揺るぎなく持っているからなのかもしれないとは思う。
猫とヒト。向こうが自分とは別物だというのはハナから承知の上でのコミュニケーションだ。通じたらラッキーくらいにしか思っていないからこそ、お互いに「どうしたら意志疎通ができるのか?」と懸命に取り組んでいる。だから意志疎通ができるんだし、できると嬉しいし、できると更に好きになる。そんな感じなんじゃないだろうか。

最初に必要なのは、その相手とは意志疎通はできないという前提がありながらも、何とかして相手と意志疎通をしたいという思い。それがありさえすればどんな相手ともできるのかもれない。せめて、猫との間で可能な意志疎通くらいは。

こう書くと、「お互いに別の生き物だと思え」とか「どうせ通じ会えない」って思うように薦める心ない話に見えるかもしれないけど、実際にはそんな事はどうでもいいのだ。最初の心持ちがどうであるかなんてどうでも良くて、それよりも、結果的に意志疎通ができるようになりたいのだ俺は。結果的に意志疎通ができる。だから、お互いに相手に好意を持つ。さらに意志疎通がしたくなる。コミュニケーションを図る機会が増える。意志疎通できる機会が増える。お互いに好意が増える。良好な関係性ができあがる。

「日本語が通じるんだから」そう思った瞬間から、意志疎通ができるのが当たり前で、できなければいがみ合うし攻撃的になる。そんな殺伐とした空気が社会に蔓延っている。だけど、他者にそんなに殺伐としたモノを向けているヤツラでさえ、動物、特に猫には慈愛の眼差しを向けているのをよく見かけるし、優しく接しているのもよく見かける。
だから「意志疎通ができたらラッキー」くらいに前提を変えてみる。意志疎通ができないからと言って猫や動物に辛く当たったり攻撃的になったりしないだろう。どうしたら意志疎通ができるかを考えて色々やってみる程度だ。で、成功したら嬉しい。そうやって段々と猫との関係性を築いていってそれを喜びにする。そんな、猫とヒトのような、動物とヒトのような、愛に溢れた世界になるといいのに。

夜中、テレビを観ている俺の膝の上で丸くなっている猫の暖かさを感じながらぼんやり考えていた。