知らないうちに切り離してしまっているのが思考と身体なのかもしれない
切実さがどんな風に生まれてくるのか。そのメカニズムを体験したかもしれない。
日曜日の昼下がりに散歩に出かけた。飼っている犬の散歩を兼ねて、家族で近所を散歩した。
普段、俺は犬の散歩に行かない。だからかなり珍しい出来事だ。それが子どもには楽しいようで、しばらく歩いた先にある、車の入ってこないだだっ広い場所に行くと、しきりに徒競走をしかけてくる。
ふむ。どうやらこの俺に勝てると思っているようだな。例え子どもの戯言だろうと、売られた喧嘩は全て買うと公言しているこの俺が、久々の短距離走だからと言って受けないやけにもいかないし、負けるわけにもいかないのだ。そう思って、受けて立った。
もちろん、大人の全力で走って勝っても子どもは泣くだけなので意味がない。やるとすれば、いかに子どもを満足させるかだ。子どもが全力で走るのに合わせて、ほどほどのスピードで走る。そして、ギリギリで勝敗が決したように思わせて、勝たせる。この作戦で一回で終わりにしよう。
そう計画して競争をした。
結果、作戦通りの勝敗になった。これで終わりかと思いきや、もう一回のアンコールがかかる。
以前までの俺だったら、こんな勝負は何回だって受けてやった。しかし、今の俺にはこれを何度も続けることはできない。それくらい深刻な状態に陥っているのだ。症状は日に日に進行している様子だ。今の状態では激しい運動は危険なのだ。軽く走っただけなのに、既に息が上がっている。心臓の鼓動も激しい。
そうなのだ。今の俺は健康体とはほど遠い。俺の体はすっかり蝕まれているのだ。自分の体調は自分が一番良くわかっている。体は重いし、動きも鈍い。躍動感は失われ、疲労も回復しない。
この症状の原因で思い当たるのは1つしかない。
肥満だ。
そうなのだ。今の俺の体には、脂肪がたくさんついている。ここ3ヶ月の不摂生の賜物だ。全身が脂肪で覆われ、筋肉はその下に押し込められたうえ、トレーニングをさぼったおかげですっかり細くなっている。当然、走れば息もすぐ上がるし、疲労も抜けない。体も重いし、反応も悪い。
脂肪に覆われた重たい体を引きずるように走り、子どもをなんとか満足させて帰路につく。
帰り道で、俺は思った。
「この体をまた動けるようにしたい」
切実さがこの時に生まれた。
いくら鏡を見ても、まだ大丈夫だと思っていた。いくら周りから、そろそろヤバイよと言われても、まだ大丈夫だと思っていた。いくら、そろそろ運動しなくちゃなあと思っても、まだ大丈夫だと思っていた。
だけど、
体を思いっきり動かす必要に迫られた時、パフォーマンスの低下を文字通り体感した時に、ようやく切実さを体感できた。
切実さの体感。それは、いつ、どこで、どんな時にやってくるかは分からない。だけど、いつも気にしていなければやってこないのは確実だ。そうして何らかの体験によって自分の中の切実さに繋がって一気に行動が引きずり出される。そんな感じ。だからきっと、切実さは「そうしたい」という切実な能動的行動からしか生まれない。
だから行動が大事って誰もが言うのかもしれない。