シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

人が『超える』瞬間を目撃したことはあるか?


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世界が変わって見える経験をしたことがあるか?
比喩ではなく体感した事があるか?

この質問に、「yes」と答える人はどれくらいいるんだろうか?

もし「yes」と聞いた人には更に聞いてみたい。その体感って人生において何回くらい経験したことがあるのか?そして、複数回経験しているとしたら、どれくらいの頻度でそれが起きたのか?

もし、「何について話しているのか分からない」という人がいたとしたらごめんなさい。書いてある以上の事は今の俺では伝えられないと思う。これは、感覚の話であって、体感が無い者と体感がある者との間には架橋する事ができない類いのモノなのだ。例えて言うなら、『自転車に乗れる』や『逆上がりができる』という感覚に近い。ああいう類いの、できるとできないが明確に別れている感覚の話だ。さらに言うなら、これは身体操作の話ではない。身体操作を伴わない頭の中と心の中の働きだけの話でありつつ体感の話でもあるのだ。だからこそ、人にやり方を教えるというのは現状ではほぼ不可能だし、仮に言語化できたとしてもそれを見聞きした相手がそれを再現して体感できるわけではない。
そういう類いの話だ。

これだけだと、この感覚を持つ者と持たざる者とを区別するだけのつまらない話になってしまう。だけど、この話の面白いのは、ここから先にある。

この体感、実は、とても個人的な体感なんだけど体感した人達同士の間では、確実に共通の感覚として話ができるのだ。この体感がある人同士だと共通言語が増えたようなそんな感覚。だからこそ、相手の事が分かるようになるし、相手の分からないことも分かるようになるのだ。

そんな、文字通り『世界が変わって見える体感』。そんなものが実際に在る。だけど、これは体感した者にしか理解できないし存在も認識できない。

だけどこれは、いつでと自由に自分自身で起こせるモノではない。例えば逆上がりのように一度体感したからといってこの体感を何回でも自分の意思で起こせるものではない。ただ、一度「変わって見えたモノ」はもう元には戻せない。自転車に乗れなかった感覚が二度と取り戻せないように。

そんな変化が、仲間の中に起きた瞬間を目撃した。一気に変わった世界に戸惑う仲間の姿がとても懐かしいし、同じ世界を見れている感覚が実感を伴った瞬間を体感できた。

これでまた一段階、俺達のギアが上がったし、また強くなった。これが実感して理解できるのも俺達の強さなのだ。