シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

はんぶんふしぎ


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全く別々の事柄の間に共通項を見出だす。

これは、新しい取り組みを産み出したりレベルアップしたり1段階上に行くときには必ず必要になってくるし、これができるとできないとじゃ己のステージに大きく影響が出るに違いない。そう感じる場面が、またもややってきた。

とあるAの事象。それとは全く無関係のBの事象。それらは一切の関係がない全く別の事象であり、時間も空間も異なるし、目的も手段も異なる。その結果起きたものも産み出されたものも違うし、何なら、それを能動的にする側と受動的にされる側という違いすらある。そのくらい全く別の事象であった時に、その両者の間にある共通項を見出だして抜き出す。もちろん、あらゆる事象に共通項があるわけでは無いし、いついかなる時も「共通項があるかな?」なんて探しているわけではない。だけど、共通項があると気付く時はいつだって突然やってくるし、その結果抜き出して手に入るモノは物凄く有用なモノである事が多い。

トリロジー思考によってこれが可能になっているのは分かる。だけど、そんなことをいつも意識できているわけではない。そもそも、両者の間に共通項があるかどうかや、もしあったとしてもそれが俺にとって有用かどうかは見出だしてからじゃないと分からない。なのにそれが起きるときは大抵が同時にやってくるのだ。正確に言うと、気付いて見いだした次の瞬間にそれがとても有用なモノだと気付く感じだ。

だけど、今のところそれを意図して起こす事はできていない。当たり前と言えば当たり前だ。
意図して起こすという事は、既に気付いている事柄にしかできないからだ。既に、それらの間に共通項があって、その共通項が有用であると分かっている場合にしか「意図する」のは無理だからだ。

つまり、全ては偶然に起きる。偶然に起きている。でも、この偶然の頻度は確実に上がっているしその精度は高まっているのが感覚でわかる。だとすると、これは本当に偶然なのか?偶然なのに頻度があがったり精度が高まるなんてことがあるのか?そして、その頻度も精度も向上することを俺が切実に願っていて俺の願いが叶いつつあるとも言える状態になっている。ここには、俺の意図は介在していないのか?介在しているとしたらこれは偶然ではないのではないか?

こんな事を考えていたらよくわからなくなってきた。でも、実際に起きているのも事実なのだ。

自分の身に起きる事柄を、あらためて考えてみると不思議がたくさん存在している。一体これは何なんだろう?できればこれからもこの不思議が続いて欲しいけど、どうしたらそうなるのかは未だによくわかっていないのだ。