シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

ロックでないヤツはロクデナシ


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毎日が必死だ。

余裕なんて無い。いつも目の前に、『死』が迫っている。仕事としての死、経営者としての死、一人の男としての死、人としての死。たくさんの死にまみれて、一切の余裕なんてものとは無縁の状態で生きている。毎日そんな気持ちだ。

そんな気持ちと同時に、毎日必死に考えているのか?という疑問がいつもどこかにあるのだ。必死に、切実に、考えて考えてそのうえで行動ができているのか?それだけやった挙げ句の結果なのか?常にやりきれているのか?自分に対して、いつもどこかでそんな投げ掛けがされている。

本当に必死なのか?死が迫っている人間の行動として間違いはないのか?選択肢はこれだけなのか?考える材料は足りているのか?できることは他にないのか?このまま行くしかないのか?

誰も歩いた人はいない場所を進んでいるので道は無い。見通しもきかないし、道しるべも無い。だけど、目指す場所はあるので、そこに向かってとりあえず行ってみるしかない。進みながら、もしかしたら戻る可能性もどこかで持っておきながらも、思いきって行ってみるしかない。可能性が高いのか低いのかも、本当のところは見当がつかないけど、今できることを全てやったなら、この先のどこかで振り返ったとしても後悔はしないだろうから。今の自分達で考えられるできることやるべきことは全部やってさえおけば。

そう考えるとやっぱりまだまだ必死さは足りていないのかもしれない。
あとちょっと。もう少し。そんな風に自分に対して思うってことはまだいけるって事なんだろう。本当に全部出しきったら、もう無理って思うはずなんだから。

てことは、前言撤回だ。

毎日が必死、では無かった。

毎日必死だと言いたいし思いたいけど、そこまでやっていないくせに余力を残しているロクデナシに成り下がっていたのだ。こんなの全然かっこよくない。めちゃくちゃカッコ悪い。そういうヤツに自分がなっていたと書きながら気づいてしまった。自分について、本当にもうどうしようもない感じになっているけど気付いてしまったからにはどっちか選ぶしかない。
このままカッコ悪い自分で進んで真のロクデナシとして生きるのか?
それとも、毎日必死に生きるのか?

昨日、怒髪天のライブで必死に生きる人のかっこよさを目の当たりにしたからなのか、それとも今日の会議で色んなヤバさを痛感したからなのかは分からないけど、自分をあらためて『かっこよさ』の判断基準で見つめ直してみたら、現状は死ぬほどカッコ悪い姿をしていたというのが見えてきた。そんなのを受け入れるのはなかなかにハードだ。だけどこれが現実。こういう事も受け止めて受け入れて先に進むしかないのだ。それが、がむしゃらに必死に生きるかっこよさを手に入れるめちゃくちゃにカッコ悪い姿をしたかっこよいロックな生き方かもしれないのだ。