シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

見えてる世界が全てじゃない 見えないモノもあるんだ


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『認知的不協和』というモノがある。

ウィキペディアによると、「人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態。またその時に覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこらを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている」とある。

例えば、自分の学歴や経歴、自分の体型や容貌、自分の仕事や私生活、自分の人生。それらに、認知的不協和を感じた時に、それを解消しようとして事実をねじ曲げたり都合の良い解釈をしようとして、客観的にみると明らかに整合性の取れない事を、あたかも事実のように捉え続ける。そして、それによって自分自身に『呪い』をかけている人を、本当にたくさん見かける。

例えば、本当は太っている自分が嫌いで痩せたいと思っているのに、痩せる為には絶対に必要な運動や食生活の見直しという1セットになっているモノをやりたくないが為に、敢えてそれぞれを切り離して考えた挙げ句、効果が不明で怪しいダイエット法に手を出したり「水を飲むだけで太っちゃうから」などと言ってしまう人達。

例えば、本当は鍛えられているカッコいい体になりたいのに、カッコいい体になるために必要なトレーニングはやりたくないが為に、体を鍛えている人を揶揄したり見下したりできない理由を並べ立て「仕事や生活の中でナチュラルに鍛える」事に拘る人達。

そんな例を挙げていったらキリがないくらいに、世の中の多くの人達がそれとは気付かずに、もしくは気付いていながらもなお、認知的不協和の解消をしようとして、事実の捉え方をねじ曲げ、客観的には明らかに整合性のとれないおかしな事を言ってのけ、やってのけ、自分でわざわざ生きづらくなっている人をたくさん見かける。もちろん、俺もその中の一人だ。

だけど、自分の中で起きている認知的不協和の解消を、自分で認めて受け止めて受け入れることができると、とても生きやすくなるし、見える世界が変わるし、ブレーキがかかっていたものが解放されて、一気に『人としての能力』が上がるのを実感できるのだ。そして、その体験を俺もたくさんしているからこそこの感覚が分かるのだ。これは、誰かが認めるとか信じるとかそんなどうでもいい事を越えた単なる事実の話だ。

そんな、『認知的不協和の解消』を仲間が超えていく様子を目の前で見た。とても苦しそうで、とても大変そうで、だけど、本当に自由になっていく様を見ていて、めちゃくちゃに面白かったのだ。他者が目の前で苦悩しながらも、目の前で、人間としての本当の意味で成長を遂げる様をリアルに見ていて、本当に面白かったのだ。

これができる人は、世の中にそんなにいない。誰もができる体験ではない。それは、体験した身として理解できるし、理屈を超えた体験として持っている者しか分からないものだ。だけど、超えた人には誰にでも共通の感覚として持っているものでもある。性別も境遇も経験も全てが違う人との間でも、この感覚は共通しているモノとして話が通じるのだ。逆に、これを超えられていない人とは、その他が共通していても最後の最後で話が通じないし、それは根本的な部分なので、わかり合う事はできない。

そんな、人間にとって強烈な影響をもたらす『認知的不協和の解消』を、自分がしてしまいそうになった時に、気付けるかどうか。ここで、人間の真価が問われる。