シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

とても個人的な細やかな願い


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一日前に書いた『認知的不協和の解消』について、ホントはたくさん書きたいことがある。

何しろ、俺自身がそれをとてもたくさん抱えていた身として、書けることがたくさんあるのだ。たくさん抱えていた認知的不協和の解消を、本当の意味で解消してきたからこそ他人が抱えている認知的不協和の解消行動がビックリするくらいすぐに見えてしまうのだ。これは、俺の仲間には話をしている内容だけど、それ以外の人には理解しがたい話だと思う。
なぜなら、『認知的不協和の解消』をしている自分自身に気づける人はほとんどいないからだ。これに気付くというのは、とてもツラいのだ。気付いたことのある人はその意味が分かるはずだけど、これに気付いてしまうと、それまでの自分が全てあり得ないほどクソだったという事に気付いてしまうということなのだ。これには例外は無い。そのうえで、これまでの自分の全てがクソだった事を真正面から、逃げずに受け止めて、逃げずに咀嚼して、逃げずに受け入れて、逃げずに乗り越える。これをしないといけないのだ。
逃げるヤツは、自虐で終わる。逃げるヤツは、他責で終わる。逃げるヤツは、言い訳をして終わる。逃げるヤツは、途中で諦める。これが、己との闘いってヤツなのだ。
これを全てやりきって、闘い抜いて、乗り越えたところで、救いは待っていない。さらにそこから、次のステージの闘いが始まるのだ。
つまり、乗り越えたらまた闘い始めるという覚悟が無ければそもそもスタートも切れなければ、次のステージに行くこともできないし、ましてや、別の次元の景色を見るなんて到底できるはずがないのだ。

俺はやってきたから、言えるのだ。仲間がそれを乗り越えるのをずっと身近で見てきたからそれが言えるのだ。だから、この話は今のところ、仲間にしか通じないのだ。

でも、最近、この話が通じそうな人達に少しずつ出会えているような気がしてきている。その人達は、まだ俺たちの仲間にはなっていない。だけど、この話が通じるのだ。

『認知的不協和の解消』をしてしまっている事に気がついて、自力で乗り越えてきたという人がいるんだったら会ってみたい。会って話をしてみたい。一体どんな事が、それに該当していたのか。どうやってそれに気付いたのか。どうやってそれを乗り越えてきたのか。そして、今は、どうしているのか。そんな話を、自分達以外の人から聞いてみたいのだ。

あの苦しさ、あのツラさ、あの厳しさ、あの孤独、あの疲弊、あの衝撃、あの光、あの景色。そんな諸々について一緒に話をさてみたい。

最近の俺が抱いている、細やかな、だけど、途方もないくらい荒唐無稽な、ちょっとした希望だ。