シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

あの鐘を鳴らすのは誰だ?


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『希望』が無いと前には進めない。

これを、ここ数日で痛感したのだ。

今までは、そんなことを考えながら過ごしてきた事は無かった気がするのだ。希望なんて、何となくいつも自分の中にあるんじゃないかなあ、なんて事すら考えてはいなかったけど、そんな風に勝手に備わっているんだとばっかり思っていたような気がするのだ。

だけど、そんなのはとてつもなく都合の良い話だった。

希望は、持とうと思って持っていないと気が付いたらそもそも持ち合わせが無かったりとか、気付いてから探し回らないといけなかったりするのだ。そうなるともう大変だ。いくら考えたって持ってないんだから出てくるはずはなく、あげくのはてには、全く別物を希望だと勘違いして、持っていたつもりになって、でも本当は無いもんだから、苦しくなってくる。

そんな、一体何がなんだかわからないながらも、何かが足りない状態にいつのまにか陥っていて大変な気分になってしまっていたようだったのだ。そして、そんな状態になっているなんて自分では気付かない。なんか変だなあとは思っていたけど。まさか、希望の欠如だとは思いもよらなかった。

何でそれに気づいたのかと言えば、説明しようとするとかなり長くなるので省略するとして、一言で言うならば、『他者に話を聞いてもらえたから』に他ならない。

自分の中にあるものを、あーでもないこーでもないと話ながら確認しながら戻りながら進みながら話をしていくことで、少しずつ見えてきたのだ。本当は、自分で知っていたけど気付くと厄介なモノが一気に噴出してくるであろう気配のする塊を封印している“蓋”の存在に。
これに気付いてしまったら、開けなければならないのだ。そうしないと、今の現状から一歩も前には進めないのが分かりきっていたから。
そうして、ドバッと流れ出してきた膿のような塊を全て出し尽くした後に残っていたのは、自分が自分にしたはずの未だ果たされていない約束と、それを可能にする事ができる唯一つのモノである『希望』だけ。そんな感じだ。

自分が自分自身に希望を感じられていなかったのが、ここのところのモヤモヤした何かの原因であり、最近色んな事に対して怒りを感じやすい原因だったのかもしれないと気付いたのだ。そうして、そんな自分にも疑問を感じ、さらに自分に対して希望を感じなくなっていく。その繰り返し。
「初心忘れるべからず」と言うとおり、自分がした約束を果たそうと懸命に取り組むからこそ、自分に対して希望を感じる事ができるはずなのだ。凄く大変だけど。

だけど、今更、大変かどうかを問題にしている場合じゃない。そんなところはとっくに通り越していたと思ったけど、己の中の認知的不協和の解消によって発生していた歪みのなんとデカイ事か。あらためて、呆れつつも、気付いたんだから今からまた勝負が始まるんだなあと、再度というか、何度目かの覚悟を決めた。

何回だってやり直すし、何回だって走り始め続けるのだ。それも俺にとっての希望になる言葉であり、事実、そうやっていく事でしか、負けないを実現する方法はないのだから。

これも俺の『希望』の中の一つなのだ。