シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

兆しが見えたのは何の兆し?


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まだまだ全然だけど少しだけ兆しが見えてきた。

悪いことはずっと続くんじゃないかと思ってしまうじ、良いことは長くつづかないんじゃないかと思ってしまう。でも、アクションをし続けてさえおけば、その結果として、何かが起きるor何も起きないという事が起きるのだ。その、起きた結果が悪いか良いかは本当にただの結果論だし、自分にとって『良い』という結果になるように準備をしたりしておけばその可能性を高めたり、『悪い』になる可能性を取り除いておく事ができるくらいだ。それでも時間が経てば何かしの結果は出る。それがどうしても受け入れがたいモノだった時に、受けとりたいように認知を変えてしまう人もたくさんいる。俺もそうしてしまっている瞬間がたくさんある。

だけど、起きたことはただ時間が経ったそれだけの現象としてそこに在るだけで、それ自体には意味も何もない。意味はそれを受け取る人が勝手に持つだけだ。誰かにとって無意味でも、別の誰かにとってはとても重要な意味がある。もちろん、同一人物にとっても、時間が経てば意味の有無も変化するかもしれない。

だから、今回の『兆し』も、時間が経ったら兆しじゃないように見えるのかもしれないし、他の誰かから見たら兆しでもなんでもないのかもしれないし、逆に時間が経ったら誰かにとって意味がうまれることだってあるかもしれないのだ。物事は意外とそんなもんなのかもしれない。

物事はただそこにあるだけ。その意味については、何かを勝手に受け取って、勝手に解釈すればいいし、他にできることはない。だとすれば、その意味について、一喜一憂する必要は無いとも言えるのだ。

だから、フラットに、なるべくフラットに見つめる。なるべくフラットに受け取る。
それしかないし、それだけだ。

兆しも結果も何もかも、ただそこにあるのだ。