決定的な違いを生むモノの正体
俺は業務として会社で起こるクレームへの対応を日常的に行っている。
所謂『クレーマー』という存在に社内で最も対応している。
そんな『クレーマー』に対応する際に最も気を付けている事がある。
それは、
相手の言う事を聞きすぎない事。
もう少し言うと、相手の言っている事の中から“聞き入れるべき事”と“聞き入れない事”の切り分けを行う事だ。この切り分けを間違えると単なる『クレーマー』を、“手に負えない”クレーマーに変貌させてしまう事になる。
単なるクレーマーは、言葉通り、単なる“クレームを言う人“だ。言葉通り、単なるクレームを言うだけの存在、つまり、相手がクレームを言う事で完結するのだ。そのクレームに応えるか応えないかは、俺に権限がある。仮に、相手のクレームに応えないとしても、それは何の問題も無いのだ。なぜならば、相手は、単なるクレームを言っているだけだから。それに応えないといけない義理はそもそも存在しないのだ。
だけど、
“手に負えない”クレーマーの場合はこうはいかない。
相手が“手に負えない”状態まで進化してしまっていたら、文字通り、手に負えないのだ。なぜなら、相手はただクレームを言っている人ではない。「何が何でも」「何がどうあっても」自分のクレームによって相手(つまり、我々というか俺の事だ)を屈服させる・言う事を聞かせるというのが目的になっているから“手に負えない”のだ。言って終わりではない。どんな手を使ってでも、屈服させることを目的にしているのだ。だから、手に負えない。この段階まで来てしまったら、もはや、理論や理屈は関係ないのだ。どれだけ話に整合性がなかろうと、どれだけ自分が支離滅裂な事を言っていても、どれだけ相手(この場合は俺)から「キ○ガイだ…」と思われても、あらゆる事は関係なく、ただ相手を屈服させる為だけに行動をするのだ。もうこの状態になった人間は“手に負えない”。如何に、『特命係長』の俺であってもここまできたら対処の仕様がない。
この段階に入ったら、できる事は一つ。
捨て身で対峙する。
ただそれだけだ。
だからこそ、ここまでにならないように、日頃から危険を回避するためにどんな小さな違和感も見逃さないように仕事をしていく必要があるし、違和感がある部分に関してはありとあらゆる事実確認を行っておく。これだけが、目に見えない危機を回避する可能性を高める手段なのだ。
だけど、これは、教えて受け取れる人はいないのだ。
いや、正確に言うと、教えて受け取れる人は既にこの能力の片鱗は確実に身に付けているのだ。つまり、教えてできる人は既にその素質が見えているという事だ。その素質の片鱗も見当たらない人はいくら教えてもできないのだ。これは、いわゆる通常業務とは全く異なる性質がある。誰にでもできる類の仕事ではないのだ。センスや素質や才能といったものが大いに関係してくる類の仕事だ。
だからこそ、定量的な評価が難しいし、マイナスをゼロにする仕事だから評価もされにくいし、他の仕事の要素とはあまり関係がないので大きく評価につながる事は少ないし、出来る人の所にずっと振られ続けるし、そして、この危機回避や危機管理といった業務は、誰にでもできるわけではない。
これをできるようになるには、
何が無くてもまず“覚悟”。
これに尽きる。
“覚悟”と“素質”。
これだけだ。
この事に気づくまで時間がかかってしまった。
幾ら教えても無駄だったのだ。
この2つを備えていない人間に教えても仕方ない。
教え事じゃない仕事というものは存在する。
スペックは関係ない。
キャリアは関係ない。
勉強の成績は関係ない。
役職は関係ない。
単なる、生き物としての“性能”の話。
所謂、やり方とか教え方とか取りくみ方とか知識とかスキルとかというモノとは全く性質の異なるモノ。だけど、“仕事”という枠組みにはいってくるモノ。
それに、今日、あらためて気づいた。
「いつかできるようになるはず」
そう思って関わってきてしまって、今までゴメン。
俺の関わり方が間違っていたのだ。